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教育(下)「学校II」 評価された"話し上手"渥美清


学校II

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故・渥美清さんは、東京の下町に生まれる。父親は新聞記者を辞め、文筆業で身を立てようとしたが、ままならず、家でゴロゴロしているだけというありさま。母親の内職だけが家計の支えという貧しい少年時代を送る。さらに渥美さんは、小児腎臓病や関節炎を患うなど病弱で、学校も休みがち。たまに学校に行っても授業についていけるはずもなく、成績は42人中41一番目。学校は彼にとって楽しいところではなかった。

ところが、担任の先生は、渥美少年の"話し上手"を評価して、グラウンドが雨で使えない体育の時間などは、渥美さんの"お話を聞く時間"に切り替えた。よほど、渥美さんの話が面白かったのだろう。隣のクラスの担任が生徒全員を連れて聞きにくることもあったほどである。

これは、山田洋次監督が講演などでよく披露する渥美さんの少年時代のエピソードである。前回(14日)紹介した英国映画「ケス」における(ハヤブサのケスとの出合い・飼育を生き生きと黒板の前で同級生に語って聞かせる)ビリー少年も渥美少年も、貧しい家庭環境に育ち、勉強もスポーツもできないのナイナイづくし。

今なら、真っ先に"落ちこぼれ"の烙(らく)印を押されいじめの対象になるか、不登校児重になっていたのだろうが、彼らには、彼らの長所を認め、引き出してくれる教師がいた。それは何も特別なことではなく、当時は、どこにでもいた当たり前の教師だったのではないだろうか。

恐らく、渥美さんにとって、少年期に人前で話し、大勢の人を喜ばせる事に快感、そして自信を得た経験が将来、役者を志すきっかけとなったのだろう。もしも、生徒を鋳型にはめ込み、そこからはみ出す者を切り捨てる傾向の強い、現在のような教育現場だったら、不世出の名優渥美清は生まれることはなかったと思われる。

山田洋次監督の新作「学校II」が公開された。この"学校"の映画化は、山田監督にとって二十年来の念願だった。まず、93年に夜間中学を舞台にした「学校」が公開される。公開時の私の印象は、西田敏行田中邦衛竹下景子ら評価の定まった俳優をタイプキャストし、彼らの個人技に寄りかかった"お涙頂載映画"というものでしかなかった。私は、山田監督が75年に、無名の役者を中心(素人も含む)に作った「同胞(はらから)」という作品が好きで高く評価していたこともあり、期待の大きかった「学校」にはなおのこと、抵抗感が強かった。

最近、改めて観(み)直してみると、抱擁力があり、生徒とともに悩み、苦しみ学び、楽しむ先生"クロちゃん"役は現状では西田敏行が最適であり、また、貧しさ故、小一学校にもろくに通えず、さまざまな職を転々とした結果、学問の必要性を痛感して、五十歳を過ぎてから夜間中学に入学した初老の労務者"イノさん"は田中邦衛以外に考えられない、と素直に思えるのだった。

どうやら、観る側の私の方に偏見があったようである。覚えが悪く、自信喪失ぎみのイノさんが、教師に促されたことで、大好きな競走馬オグリキャップを片仮名で黒板に書き、それからオグリキャップの優勝した第三十五回有馬記念の模様を克明に語るくだりは圧巻である。このイノさんに、またしても少年時代の渥美さんの姿がダブるのだった。

そして「学校II」は、高等養護学校が舞台。前作同様に、"学校"とは、教育とは。をテーマに、一歩踏み込んで障害を持つ卒業生を受け入れる日本社会の厳しい現実にも触れている。

真剣に教育に取り組み、もがき苦しんでいる教師は現在もたくさんいるはず。だったら、そんな先生たちを応援する映画があってもいいのではないか、の発想から生まれた山田監督の「学校」は、今後も作られると思うし、またそうであってほしい。それらで描かれる教育や指導の問題は、学校という特殊な空間の中だけのものではなく、企業などの組織にも十分通用すること。なぜなら、だれにでも、先生や生徒になる時と場合があるのだから。

学校U
絵:菊地敏明

1996年10月31日 (敬称略)