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裁判映画 〜市民の司法参加を考える〜


12人の優しい日本人

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辞任が決定的な森首相の後継選びのゴタゴタ、外務省元室長の政府機密費詐取事件、KSD疑惑、福岡地検の山下前次席検事による捜査情報漏えい問題とその不起訴…。最近のこれらの問題や事件は、ほとんど、党や省庁の責任が問われてしかるべきなのに、決着法は大なり小なりトカゲのシッポ切り。こういうことを続けて見せられると、怒りより、諦(あきら)めや無力感が強くなってくる。

そんな時、「初恋のきた道」「リトル・ダンサー」「小説家を見つけたら」などの主人公の、夢や目的を諦めない"ひたむき"な姿に出会うと、横っ面を張られ、喝を入れられたように目が覚める。

ヌーベルFで上映中の「Deaf(ろう)映画祭」のおのおのの作品の主人公たちもみな"ひたむき"だ。「名もなく貧しく美しく」の、戦後間もない、まだろう者への差別や偏見が強い時代に、幸せな家庭を築こうと懸命に生きだろう者夫妻、「ビヨンド・サイレンス」の、ろう者の夫妻に生まれ、親の反対にあいながらも音楽家への道を歩もうとする少女等々、そのひたむきな姿に心打たれる。この画期的な映画祭を、全国で初めて実現にこぎつけた実行委員のひたむきな努力も、忘れてはならないだろう。

福岡地検・山下次席検事、福岡高裁・古川判事の不祥事の例を見るまでもなく、近年、わが国では、職業裁判官に裁判の全権を与えている現行制度への疑問や不信が沸き上がり、裁判の場に市民が参加する、"陪審制度"などの導入を求める声が高まっている。

陪審裁判は、無作為に陪審員に選ばれた市民が、事実認定あるいは有罪、無罪の判定を行うもの。法の適用については、職業裁判官はプロだが、事実の認定については、エリートとして歩み、組織の一員としての昇進、栄達を抱えている彼らよりも、異なる生活体験を持つ複数の市民の常識による判断の方が、正しい事実の認定に到達できるという考え方によるもの。

陪審制度を採用している米国映画には、「十二人の怒れる男」(1957年)あたりから最近の「評決のとき」(97年)まで、見ごたえある裁判映画が多い。

特に「十二人…」は、ドラマのほとんどが陪審室での、12人の陪審員たちの議論に終始する、およそ映画的ダイナミズムに欠けると思われる設定なのだが、父殺しの犯人とされた少年を予備投票で唯一無罪に入れた男が、ほかの11人に疑問を投げかけたり説得していくプロセスは、サスペンス、迫力共に申し分なく、ディスカッションドラマの最高峰、アメリカ民主主義の教科書と言っても過言ではない。

しかし、この陪審員全員が白人男性というところに、時代性とこの制度の問題点もはらんでいる。

今から10年前の日本映画で「12人の優しい日本人」という作品がある。これはタイトルでわかるように、「十二人…」のパロディーから出発したものだが、議論下手な日本人が陪審裁判をやったらどうなるか、というシミュレーションドラマとして、妙なリアリティーを持った秀作である。両作品共、ディスカッションをする中で、やる気のなかった人間が次第に熱くなり、"ひたむきさ"を取リ戻してゆく様にいたく共感してしまうのである。

2001年3月16日 (敬称略)