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山形国際映画祭 〜蒔いた種が確実に実る〜


映画を穫る―ドキュメンタリーの至福を求めて

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「山形国際ドキュメンタリー映画祭2001」が閉幕して10日。7回目のこの映画祭は、1989年の1回目を、久しぶりに思い起こさせてくれるものだった。

今回の映画祭を前にして、第一回で、インターナショナル・コンペティションの審査員をした二人の日本人、劇作家の如月小春さんと映画監督の勅使河原宏さんが、相次いで他界。早過ぎる二人の死だった。そして、今年の開幕を目前に控えた9月に、バイオリンの巨匠・アイザック・スターンが、心不全で亡くなる(享年81歳)。

スターンは、映画祭自体には何もかかわっていないが、彼が出演したドキュメンタリー映画には、大いにお世話になった。その作品とは、スターンが79年に中国に演奏旅行をした様子を撮った、『毛沢東からモーツァルトへ』。 演奏に行った先々で、奏者や子供たちを、ユーモアを交えながらも長所を伸ばす、スターンの指導と温かい人柄に魅入られ、また、音楽学校の校長とスターンの 会話から、中国クラシック界が受けた文化大革命による傷跡が浮き彫りになる、意外な展開など、観客を飽きさせることなく楽しませる、ドキュメンタリー映画 だった。

それは、ド キュメンタリー映画が一般に抱かれていた、“重い、暗い、難解”というマイナスイメージを打破するもので、これから始まる映画祭への理解を深めるために、 山形市だけでなく、県内各地で結成された、映画祭ボランティアネットワークを対象として、映画祭開幕前に何度も上映したのだった。かくいう私は、この頃映 写する側におり、スターンへの尊敬の念と感謝の想いが一層強かったので、感慨もひとしお。

そんな私を、この映画祭に引き込んだのは、世界的ドキュメンタリスト、故小川紳介監督だった。当時、小川監督率いる小川プロは、上山市牧野に移り住んで13年。集団で、稲作りをしながら、『にっぽん国古屋敷村』(1982年)や、『1000年刻みの日時計・牧野村物語』(1986年)等、すぐれたドキュメンタリー映画を撮り、国際的に高い評価を得ていた。

私は、『〜・牧野村物語』の県内上映の仕事に携わっていたということもあり、この映画祭が、山形市制施行百周年イベントの一つとして実現が決まった時、いかに素晴らしいものとなるかを、監督から力強く説かれ、何だかわからないままに足を踏み入れることになったのだった。

そして、県内の映画仲間を巻き込み結成されたのが、“ネットワーク”。その結成式で小川監督のアドバイスがあり、デイリー・ニュース発行と市民賞の運営が、主な仕事となった。そんな、“ネットワークの父”“映画祭の父”とも言える小川監督が、1991年の映画祭には体調を崩し不参加、そして翌1992年2月7日に鬼籍の人となる。享年55歳。直腸癌だった。

1989年当時、日本以外のアジア諸国では、文化映画・国策映画を除き、ドキュメンタリー映画が作られることはないという事実に、小川監督は心を痛めてい た。そこで映画祭に、アジアの若手作家を数多く招き、アジア・シンポジウムを開き、司会進行を自ら務め、アジアドキュメンタリーの活性化を希求して、熱く 語り合う場を設けていた。小川監督不在の映画祭は今年で6回目だが、“アジア千波万波”の劇場は連日超満員の活況だった。確実に小川監督のまいた種が実ってきている証しである。

今回のオープニング上映は、小川監督が未完のままにしていたフィルムを、彼が晩年目をかけていた中国の、彭小蓮監督が完成させた、『満山紅柿』。上映前の挨拶(あいさつ)では、小川監督と長年、公私共にパートナーだった白石洋子さんが、はるか彼方(かなた)を見つめながら、突然、「小川さん、見てるう!」と呼びかけたのには、胸が熱くなった。

米国同時多発テロの影響で、米国・パレスチナ両国の監督が来日をとりやめ、期間中に米英両国によるアフガン空爆が始まった今年を、小川監督は何と言うだろう。

「1989年だって映画祭前に、中国で天安門事件があって、田荘荘(ティエン・チュアンチュアン)たちが来れなかったし、映画祭のひと月後には、ベルリンの壁が崩れたじゃないか。人間の愚かな行為をどんどん映画で撮らなきゃだめだよ」。あのカン高くよく通る声が聞こえた気がした。

2001年10月19日 (敬称略)