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“詩の少女”を映画化『日を愛しむ』〜蔵王など舞台愛の日々〜


蔵王第二小学校にある斎藤茂吉の歌碑
蔵王第二小学校にある斎藤茂吉の歌碑

「しづかな日和だよ。何にもないのに、みんな笑ってる。けしの花のほこりがとなりの花へとんだよ」。この「日和」という詩は、明治44年、南村山郡堀田村上野(現、山形市蔵王上野)に生まれた金子ていが14歳の時に、児童文学雑誌『赤い鳥』に投稿し掲載されたもの。

ていは、小学三年で『赤い鳥』に初投稿以来、4年間で49編の詩が掲載され、そのうち推奨作10編、佳作23編という高評価を受け、“詩の少女”と呼ばれるほどの存在だった。

選者の北原白秋は、この「日和」を「…略…実に深い。これだけの見方をした詩は大人達のにもあまりありません。…略…私達大人の詩はこうした子供の詩と同じところまで還って、しかもそれが境涯的にならなければならないのです。」と絶賛している。この早熟な少女は、結城哀草果らにもかわいがられた。

下に弟、妹を5人抱え、農業を営む金子家は裕福とはいえなかったが、ていを山形第一女学校(現・山形西高)へ進ませるも、さすがに大学進学には反対。向学心旺盛(おうせい)なていは反対を押し切り、日本女子大学国文科へ入学。

この時、斎藤茂吉が保証人となる。茂吉はていにとって堀田第二小学校(現・蔵王第二小)の大先輩でもあった。経済的な理由か、ていは三年で中退し、大日本連合婦人会等で働き、戦後、文部省体育局嘱託となる。

ていが、社会教育局文部事務官となっていた昭和25年、作家の外村繁と出会い結婚する。ていは39歳で初婚だったが、外村は先妻を失(な)くして間もない48歳。25歳から11歳まで四男一女を抱えての再婚だった。

ていは、外村の作品からにじみ出る澄み切った美しいに惹(ひ)かれ、周囲の反対をものともせず嫁いだものだった。二人は互いに尊敬の念を抱きながら愛し合う。そのあたりは、私小説の外村が『澪標』の中で「私は今の妻ていを知り、結婚した。私は48、ていは39である。私は先妻を亡くし慟哭した。その反動のように私は今の妻を熱愛する」と書いている。

また、外村は、滋賀県出身だったが、愛する妻を生み育(はぐく)んだ山形の大地を、故郷以上に愛するようになり、ていと結婚後に『東北』『最上川』など、山形を舞台にした作品を書いている。他にも、『濡れにぞ濡れし』『花筏』『日を愛しむ』など、優れた作品が後年に多いのも、ていの内助の功に負うところが大きかったのだろう。そして、ていは五人の子供たちも立派に育て上げ巣立たせる。これらは文部省での勤務を続けながらのことだから恐れ入る。

外村ていは最後まで愛し合い、そして仲良く二人とも癌(がん)におかされる。命の限りを告げられてからはより一層、互いを愛(いと)おしみながら生を楽しむ。結婚から11年が過ぎた昭和36年7月27日外村繁永眠。そして後を追うように同年11月26日外村ていも旅立つ。享年50歳。文部省で初の婦人教育課長に就任した矢先のことだった。

蔵王第二小学校の茂吉植物園には、ていと外村の文学碑が立っており、そこにてい14歳の作品『日和』と外村の『東北』の一部が寄り添うようにして刻まれている。

この外村ていの夫妻愛の物語が今年映画化される。タイトルは『日を愛(かな)しむ』。脚本、監督は、同名の舞台劇を手がけた深尾道典。8月から9月にかけ蔵王を中心に山形市、上山市で撮影そして公開は、外村繁生誕百年に当たる12月が予定されている。

今年は、茂吉生誕百二十年、来年は没後五十年でもある。

ていが主人公で茂吉も登場する映画『日を愛しむ』。これは応援、盛り上げるしかないでしょう。

※「山形の人2」(新アルカディア叢書H)の松坂俊夫氏講演「金子てい」の部分を参考とさせていただきました。

(関連記事コラム「どっこいヤマガタ人」No.3へ)

2002年5月24日 (敬称略)