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[No.02]  米沢が生んだ30勝投手 皆川睦男


「九時間延々 藤井氏持論」−。日本道路公団・藤井治芳総裁に対する聴聞の、翌朝の新聞に躍った見出しだ。ここで使われている「延々」は「もういいかげんにしてくれ」という長さか。


先ごろ行われた山形国際ドキュメンタリー映画祭2003の、インターナショナル・コンペティション部門に出品された「鉄西区」(中国・王兵監督)も、9時間5分という長編だが、こちらは延々という形容が当てはまらぬ至福の時間となり、大賞に当たるロバート&フランシス.・フラハティ賞に輝いた。


今 年の映画祭は"コンペティション"のほかにも、アジア千波万波、沖縄特集、ヤマガタ二ューズリール!映像ワークショッブなどの企画が行われ、いずれも活況を呈した。その中で、ニューズリールだけが耳慣れないものだった。これは1960年代後半、ベトナム戦争の泥沼化に端を発して米国で生まれた、ラジカルな映画製作集団のことで、今回の上映は、ニューズリール発足当初の’68年の作品が主だった。


この年は、キング牧師とロバート・ケネディ上院議 員が暗殺されるなど、米国内で政治や人種など、さまざまな問題が噴き出した年でもあった。それは米国だけではなく、プラハの春と呼ばれる民主化が進んでい たチェコスロバキアを、ソ連を主体とするワルシャワ条約機構軍が制圧。フランスでは、パリ五月革命と呼ばれる大規模な学生デモ。文化大革命の中国では、紅 衛兵による粛清強化。


そして日本でも、学費値上げ反対から反安保、反ベトナム戦争、三里塚闘争など全共闘運動が激化。連日、ゲバ棒を手にヘルメットをかぶったデモ隊と、ジュラルミンの盾を持った機動隊の衝突の様子が、テレビに映し出された。


当時、小学五年生の私は意味もわからず、友人と「アンボハンタイ」と叫んでふざけていた。社会にほんの少し目を見開かされた年だったが、この’68年、昭和43年は、私をそんなことはお構いなしに野球へと、のめり込ませてくれたのだった。


県高校球界では、柳橋-小山田バッテリーを中心とする日大山形が、段違いの強さを見せつけ、アニメ「巨人の星」が春から山形放送で始まる。そしてプロ野球開幕と同時に、敬愛する長嶋茂雄(巨人)がハイペースで本塁打を量産し、42試合で20号到達という、史上最速記録を樹立(’01年、西武のカブレラに抜かれる)するほどだった。最終的に本塁打王は49本の王貞治(巨人)に持っていかれ、首位打者も8厘差で王に敗れたが、打点は125で王を突き離しタイトルを獲得。打撃三部門で、ONがハイレベルにしのぎを削った唯一の年だった。


阪神の若きエース江夏豊は、奪三振401個の世界記録を樹立。巨人・阪神戦で、バッキーの王へのビーンボールをめぐって荒川コーチとバッキーの乱闘騒ぎがあり、広島の外木場は完全試合達成と、その年のプロ野球界は特別な輝きを放っていた。その輝きの陰に隠れて当時は目立たなかったが、後世に燦然(さんぜん)と輝き続ける記録を、この年に残した投手がいた。


その投手は31勝10敗、防御率1.61という驚異的な働きで、南海を最後まで阪急との優勝争いに導く。今年、セ・リーグでは井川(阪神)、パ・リーグでは斎藤(ダ イエー)が20勝を挙げたが、両リーグそろっての20勝投手の出現は、21年ぶりというほど、20勝を挙げるのは至難の枝となっている。ましてや30勝投 手など夢のまた夢である。


ちなみに、1965年から今年までの38年間で、30勝を挙げたのはこの年のこの投手だけで、今後も出ることはないだろう。この"最後の30勝投手"の名は、米沢興譲館高校(当時米沢西高)出身の皆川睦男(現睦雄)なのである。皆川はこの年、プロ入り15年目の33歳でなんと、352回を投げ抜いている。


今年のシーズンで、両リーグ合わせて最多投球回を投げた上原(巨人)の207回1/3と比較すると、いかにすごい数字であるのかがわかる。しかも、彼は足腰に負担の大きい、下手投げ投手だったのだから恐れ入る。

米沢が生んだ"最後の30勝投手"皆川睦男については、またの機会に。


2003年10月24日 「米沢が生んだ30勝投手」


(コラムNo.15「「最後の30勝投手・皆川睦雄さんを偲んで」に続く)