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[No.08]  ”沖縄の星”との縁 U


 1975年春の選抜高校野球大会で、初出場の沖縄豊見城高校をベスト8まで押し上げる原動力となった二年生工-スの赤嶺賢勇投手は一躍"沖縄の星"と注目されるようになった。そして、高校生活最後の甲子園、76年夏の大会でも豊見城高校を再びベスト8に引き上げ、この年秋のドラフト会議で巨人から二位指名を受け入団する。

 はたで見ていると、赤嶺投手は"沖縄の星"→"甲子園の星"→"巨人の星"と順風満帆に成功への階段を駆け上がっているように思えたが、本人の意識は少々違っていたようである。

 高校三年になった’76年春の選抜の時、関西地方は例年になく冷え込んだ。温暖な沖縄から来た赤嶺は、ランニングをしてもなかなか体が温まり切らなかった。 それでも、そのまま投球練習を開始する。ほどなく右肋膏(ろっこつ)に激痛が走り、痛みがとれないまま、一回戦の土佐高校を相手に先発。予選から赤嶺一人 に頼って勝ち上がってきたチーム事情もあり、控え投手に甲子園のマウンドを任せるわけにはいかなかった。土佐高を相手に完投するも4対3で惜敗する。

  赤嶺は沖縄に帰り、直ちに病院で診てもらうと、なんと肋膏は折れていたのである。全身をバネのようにして投げる赤嶺が、右肋骨を骨折し、痛みに耐え、胸を張れない状態で完投した事実には、ただただ驚くばかりだが、その代償は大きかった。骨折が癒えても、あの全身を使ったしなるようなフォームは戻ってこなかった。

 強打の東海大相模、習志野をキリキリ舞いさせた二年生の春の選抜の時 は、低めのストレートがホップする感覚があったのが、以降その感覚を味わうことはなかった。まさに、この大会が投手としての最盛期だったのだろう。しか し、三年生の夏の甲子園でも、鹿児島実業高、小山高、星稜高の強豪3校を相手に合計2点しか与えていな いのだから、いかに投手としてのセンスに満ちあふれていたのかが伺える。その赤嶺が「最も手ごわかった相手が’75年春の日大山形だった。」という事実は特筆ものである。

  そんな状態での巨人入団だった。フォームのバランスが微妙に崩れたままだったためか、1年目の後半で右肩を壊し、二軍生活が続く。それでも天性の投手センス でカバーし、一軍で中継ぎとして数試合投げることはあったが、勝ち星を挙げるまでには至らなかった。"甲子園の星"から"巨人の星"へと鳴り物入りで入団 したこともあり、本人のプレッシャーとストレスは相当なものだったと推察する。そんな赤嶺の支えとなったのは一人の女性の存在だった。’77年、新人時代 の赤嶺は二軍スタートで、イースタン・リーグを戦うチームに帯同していた。

  その日の試合会場は、山形市営球場。彼女は、ミス花笠として監督へ花束を贈る役割を担っていた。彼女の名は柴田真由美。真由美は野球に関心がなく、赤嶺が甲子園のアイドルだったことも、巨人の星として嘱望されていることも知らなかった。共に19歳の二人は球場で出会うやいなや恋に落ちる。驚いたことに、初対面で二人とも「この人と結婚する」と感じていた

  そ して東京と山形の遠距離恋愛はスタートする。赤嶺は練習と試合に明け暮れる日々のため、会えるのは年に数回だけ。電話で話すにも、赤嶺が寮住まいのため取 りついでもらった。携帯電話もEメールも無かった時代の遠距離恋愛は5年問に及ぶが、互いに感じた第一印象の思いは色あせることなく、より確かなものにな り、’82年12月に結婚。

  家族を抱え「さあ、これから」という矢先の’83年秋、赤嶺は巨人を自由契約になり退団する。 真由美のおなかには、二人の愛の結晶が宿り、悲嘆にくれている暇はなかった。赤嶺は大手運送会社に就職。’84年春から長距離トラックのドライバーとして新たな人生を踏み出す。もともと、人気プロ野球選手を好きになったのではなく、赤嶺賢勇という一青年を好きになっただけの真由美は、夫と一緒に歩いていければそれで幸せだった。

  そしてこの時、長男・悠也を出産する。 長女・桃子も誕生し、東京での赤嶺家の暮らしが軌道に乗ってきた時、真由美の妹が嫁ぐことになったという知らせが入る。二人姉妹の長女の真由美は、両親のそばに居てあげたいという思いが強かった。8人兄弟の末っ子の赤嶺に異存はなく、’89年山形に越してくる

  以来15年、赤嶺がトラックのドライバーとして歩み始めた時に誕生した悠也は、あの時甲子園で、最も父をてこずらせた日大山形高の外野手として活躍、20歳となった今は、社会人クラブチームで野球に励み、桃子は高校生活を歩み始めている。今もトラックのハンドルを握る赤嶺の夢は、山形の高校球児に野球を指導すること。恩師の栽弘義が、無名の県立豊見城高を甲子園ベスト8に導いたように、「赤嶺だったらやってくれるのではないか。」と、そんな期待を抱かせてくれる。

  長 い間立ちはだかったプロと高校球界を隔てる指導の壁が、間もなく取り払われようとしている。赤嶺監督が育てた山形の高校球児を見る日も、そう遠いことでは ないのではないか。何より、一野球ファンとして早く実現してほしいものだ。


 2004年5月13日 「沖縄の星との縁U」