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[No.10]  映画監督・山川元氏

人気のカリスマ東京都知事が、都庁の局長クラスの幹部職員を特別会議室に招集し、突如宣言する。

「東京に原発を誘致する!」
都知事のバクダン発言に幹部職員たちは慌てふためく。都知事に追従する推進派と反対派それぞれの意見がぶつかり、白熱するが、出口はなかなか見つからない。 都知事の真意はどこにあるのか。

これは、今年の春から東京を皮切りに上映している(山形は5月29日から6月4日まで上映)映画で、その名もズバリ「東京原発」。 都知事に役所広司、副知事に段田安則、環境局長に吉田日出子、財務局長に岸辺一徳、労働局長に平田満という顔ぶれに、田山涼成、菅原大吉、綾田俊樹、徳井優、益岡徹、塩見三省といった、日ごろ脇を固め目立たないがキラリと光る実力派を、適材適所に配役。

原子力発電所のメリット・デメリット、代替エネルギーなどについて徹底的に議論を闘わす。かなり深いところまで切り込む、ディスカッションドラマの緊張感 があったかと思えば、生真面目(きまじめ)さゆえに生み出される笑いが、そこかしこにちりばめられているので、一瞬たりとも見逃せない油断ならない作品なのである。何より、原発問題というデリケートな問題に正面から取り組みながら、見事な娯楽映画へと昇華させた稀有(けう)な日本映画である。

この「東京原発」の脚本を書き、メガホンを取ったのが上山市出身の山川元監督というからうれしい。そのうえストーリーも山川監督のオリジナルなのだ。
オリジナルといえば、監督2作目の「卓球温泉」(1998年)もそうだった。構想から4年越しで映画を完成させる。それは「東京原発」も同様で、その粘り強さにヤマガタ人の片鱗(へんりん)を見る。

山川監督は、上山中学校・山形商業高校時代は卓球に打ち込み、それぞれ県大会に出場するほど活躍。この時の卓球への思いが「卓球温泉」につながったのだろう。
高校卒業後、大手証券会社に就職。東京証券取引所で「場立ち」を 務める。「場立ち」とは、紺のブレザーに身を包み、身ぶり手ぶりで、売り買いの注文を執行するあの忙しい仕事のこと。監督は、どうせ東京に出ていくからに は東京でなければできない仕事に就きたいと思っていたので、何千万・何億円という額の取引を、瞬時の判断で行う「場立ち」の仕事は、やりがいと誇りを持っ て取り組めた。

頭の回転と瞬発力、体力勝負の「場立ち」を4年間務めた後、水戸支店に転勤になり、営業担当になるが、やりがいを見いだせず半年後に退職。 上山には帰らず、とりあえず東京に戻る。 実家の近所で、幼いころから兄貴的存在だった人が東京に住んでいて、その人が「好きなだけいろよ」と言ってくれた。1カ月余り居候生活を送る。東武東上線 沿線に住んでいたので、池袋・文芸座、銀座・並木座、高田馬場・早稲田松竹といった名画座通いをする。

中学・高校は卓球に打ち込み、社会人になってからは、証券マンとして忙しく過ごしてきた山川監督が、ここで初めて映画漬けの生活を送る。 そして、映画のシナリオを読んだ時に「自分にも書けそうだな」と思い、独学で書き始める。ここで、自分にも書けそうだと思うところがすごいのだが、その時、居候させてもらった「兄貴」の影響が大きいという。

山川監督は、私と同じ’57年生まれ、そして兄貴は10歳年上の全共闘世代。毎晩、酒を飲みながら、兄貴が東京に出てきてから体験した話に耳を傾ける。そ の話は、1つ1つが、面白い冒険譚(たん)のような胸躍らすものばかりだった。それは、世間の物差しだけにとらわれない柔軟な発想を植え付けてくれ、そして「今は、何やったって食っていけるよ」と勇気も与えてくれた。

それからは、知人のつてで、ビデオ製作会社で1年働き、その時に出会ったフリープロデューサーの紹介で映画の現場に入り込む。

鈴木清順監督の「カポネ大いに泣く」(’85年)での製作助手を皮切りに、降旗康男・雀洋一・伊丹十三・周防正行などさまざまな監督たちの助監督を務める。あれだけの激務の「場立ち」を経験しているので、どんな現場もつらいと思ったことはなかった。監督になることを信じて疑わず、脚本を書き続け、そして監督となり10年で5作品を世に送りだしてきた。

山川元監督、さまざまな出会いと努力によって「映画監督」という天職に辿(たど)り着き、今や映画人・映画ファンの双方から最も新作を待ち望まれる映画監督である。


 2004年8月3日 「映画監督・山川元氏」