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[No.22]  パイオニア レッドウィングス監督 吉田敏明さん


吉田敏明さんバレーボールVリーグ女子のパイオニアレッドウィングスの選手たちが、吉田敏明新監督の提唱で、地元の子供たちに 絵本の読み聞かせ のボランティアを始めたと聞き、監督就任から4ヶ月がたち、吉田カラーを出し始めたなとニンマリ。

吉田さんは1954(昭和29)年10月、山形市生まれ。父は書道家、母は中学の体育教師という家庭環境で育つ。パレーボールとの出合いは山形六中に進学してから。友人に誘われてのバレーボール部入部だった。

それからは、バレーボール漬けの毎日。中学の同級生で、山形市東原町で「梅そば」を営む山川純司さんは「吉田の影響で、クラス全体のバレー熱が盛んにな り、バレー部でもないのに、朝も授業が始まる前に体育館でバレーをやってたなぁ。それも、当時、世界で初めて日本男子代表が使い始めたばかりのAクイック や1人時間差なんてやってたもん。」吉田さんのバレーボール好きが、いかに同級生にまで強く影響を与えていたことがうかがえるエピソードである。

クラスでさえこうなのだからバレーボール部は推して知るべし。 山形六中は全国制覇をする。 吉田さんは「当時は、まだ9人制バレーをやっている学校が多く、6人制は参加校が少なかったんですよ」と謙遜(けんそん)するが、全国1位はやはり快挙で ある。中学卒業後も、山形南高、順天堂大でバレーボールに打ち込む。ジャンプ力、肩、手首がよほどすぐれていたのだろう。バレー選手としては小柄な 173cmの身長ながら、中学、高校、大学と一貫してアタッカーを任されてきた。とはいえ、社会人で通用するとは思っていなかった。

順天堂大に入学後は、選手として活躍しながらも、同時に、指導者となるべく、大学院に進む勉強も始める。「やるからには一流になれ」という父の教えも大きかった。卒業後は、筑波大大学院でコーチ学を学ぶ。大学院二年の時、順天堂大時代の恩師が 日立女子バレー部の山田重雄監督 と同級生という縁から、日立選手のレシーブ練習用のアタッカー(打ち屋)として駆り出される。

当時の山田監督は、日立のみならず日立選手を中心とした全日本チームを率い、世界選手権('74年)、モントリオール五輪('76年)、ワールドカップ ('77年)をすべて制した名匠で、吉田さんにとっては雲の上の存在だった。山田監督は、世界で最も早く情報解析や科学を取り入れた監督の1人で、この コーチ修業をする中で、情報とデータの重要性に気付かされるのだった。

間もなく日立は、アメリカ遠征に行くことになり、山田監督に誘われ同行。この遠征で、アメリカ代表の アリー・セリンジャー監督 が、山田監督に、吉田さんを打ち屋として貸してほしいと要請。1ヶ月の遠征中、アメリカチームのアシスタントを務める。

このセリンジャー監督は、今年4月までパイオニアレッドウィングスを率い、優勝請負人と呼ばれた。山田、セリンジャーという世界的名伯楽の薫陶を受けることになるきっかけが、共に打ち屋としてというのが面白い。アタッカーの面目躍如である。

いったん帰国後、修士論文を書き上げ、再渡米。'79年から4年近くにわたってセリンジャー監督の下、米国女子チームのアシスタントコーチとして過ごす。運動生理学の博士号を持つセリンジャーからは、科学を導入した指導法と理詰めのバレーを学ぶ。

吉田敏明さん'82年11月、山田監督から日立の監督就任要請があり帰国。山田総監督の下、監督として日立を完全優勝に導くが、当時の日立は常勝軍団で、自分の力とは 思えず、もっと勉強したいの思いから1シーズンで退団。'83年4月から東京学芸大でゲーム分析研究の傍ら、女子バレー部の指導と有意義な14年間を過ご す。このころになると、もう一度トップチームを指導したいという欲求が頭をもたげてきていた。そんな矢先、スウェーデン男子チームの指導者の要請があり、 助教授という身分と安定収入をなげうち、妻子を日本に残して海外に再び飛び込む。

そして1年後の'98年、誘われて 米国女子代表チーム の アシスタントコーチを務める。監督の辞任に伴い、後任監督を公募することに。もちろん、吉田さんは監督に応募。70枚の論文を提出し、面接を受ける。そし て100人の応募の中から監督に選ばれた。言葉や文化の違いというハンディを覆して選ばれた陰には、筆舌に尽くしがたい苦労や努力があったものと推察され る。

2000年10月に就任してからは、弱点だったサーブレシーブ強化に日本式の形を選手に基本から徹底的にたたき込む。1998年の世界選手権では13位ま で落ち込んでいた米国を2003年には世界ランキング1位にまで引き上げたのだったが、目標としたアテネ五輪('04年)では5位に終わり、「吉田バレー の結実」は日本、それも、故郷・山形に持ち越された。

吉田監督が、パイオニアの選手を中心とした日本代表を率いてオリンピックで金メダルを獲得し、その選手の中に、絵本の読み聞かせをしてもらった子がいた ら、どれだけ素晴らしいだろう。吉田監督、30年前のモントリオール五輪で金メダルを獲得している妻昌子さん(旧姓高柳)に続きましょうよ。
 

2006年10月6日 「パイオニアレッドウィングス監督吉田敏明さん」