作らねばならぬ映画 撮影監督の執念 山田洋次監督インタビュー
「監督、作りたくなくても、作っている映画があるんじゃないですか!?」と、私。
「そんな事はありません。すべてが作りたくて、作っているものばかりです」
と、山田洋次監督。
映画「男はつらいよ」シリーズの山田監督に初めて会ったのは、第四十作「男はつらいよ・サラダ記念日」公開中の1989年1月だった。同シリーズは、第三十作から、世界最長シリーズとしてギネスブックにも載り"国民的映画"と呼ばれてはいたが、同時に、マンネリ、パワーダウンが指摘されてもいた。
'69年8月公開の第一作が、予想外の大ヒットとなり、シリーズ化。斜陽の日本映画界にあって孤軍奮闘の感があった同シリーズは、映画会社・松竹の屋台骨を支える存在でもあった。「家族」('70)、「故郷」('72)、「同胞」・('75)、「幸福の黄色いハンカチ」('77)などの秀作は、その合間を縫うようにして撮ったもの。
松竹の重役、そして映画作家と二つの立場を兼ねる山田監督の中に、大きなジレンマがあるのではないかと思い、冒頭の質問を投げかけたのだった。監督から返ってきた答えは、思いのほか強いもので、それまでの、なごやかな空気は一変して、凍りついてしまった。その1年後、監督は「息子」の撮影に入る。公開は91年10月。公開前に配られた宣伝用パンフレットに載っていた監督の言葉は、次のようなものだった。
「映画作家にとって、作りたい映画と、作らねばならない映画は、必ずしも合致しない。『息子』は、この二つが合致した稀有(けう)な例だ」この"ねばならない映画"が「男はつらいよ」であることは容易に察しがつく。実際、山田監督も、何度もやめようと思ったことがあったそうである。こんな時、「絶対続けるべきだ」と言い続け、監督を叱陀(しった)激励したのが、先ごろ10月31日に亡くなった、撮影監督の高羽哲夫さんだった。
高羽さんは、64年の山田作品「馬鹿まるだし」でデビュー。以後、山田監督の全作品を担当する。もちろん「男はつらいよ」シリーズ全作。そして「家族」から「学校」までの一連の作品も皆、高羽さんの撮影である。
今回の「男はつらいよ」最新作でシリーズは完結するという噂(うわさ)が流れたのは、高羽さんの病状(肝臓がん)が悪化しだからという実情のようである。それほど、山田組にとって高羽さんの存在は大きなものだった。高羽さんは、福島県出身ながら、米沢工専(現・山形大学工学部)の卒業で、山形とは縁が深い。私は二回、お会いする機会に恵まれ、この高羽さんとの出会いによって"寅さん"へのつまらぬ偏見を払拭(ふっしょく)することができたのだった。昨年夏にお会いした時はすこぶる元気で、まさかこんなに早く不帰の人になるとは思いもよらぬことだった。
絵:菊地敏明
1995年12月25日 (敬称略)