伴淳三郎の世界 お笑いと名脇役と
絵:菊地敏明
バンジュンと聞いて、VANとJUNの六〇年代に流行したアイビーのトラッドとコンチネンタルの二大ブランドを思い浮かべる人は、四十代のちょっとおしゃれな男性か。山形県人ならば、やはり本県が生んだ偉大な喜劇役者"伴淳"こと伴淳三郎を思い浮かべるだろう。しかし、それも三十代半ば以上の人に限られるようである。
明治41年、米沢市に生まれた伴淳三郎が亡くなったのは昭和56年10月26日、73歳の時だった。我々の世代にとっては、テレビドラマ『ムー』や『とんからりん』『熱中時代刑事篇』で見せたような、たまに出てきて郷ひろみ、萩原健一、水谷豊ら若手を食ってしまうとぼけた老人のイメージが強い。
この伴が"アジャパー"の流行語を生みだし、日本中に笑いを振りまくきっかけとなったのは、昭和27年、42歳のときだった。『吃七捕物帳』で柳家金語楼の用心棒役の伴は、主役の高田浩吉に味方がバッタバッタと斬(き)られるさまを報告するのに、台本通り「一瞬にして、パアでございます」と言った。ところが、監督の斎藤寅次郎からもっと奇妙キテレツにやれとダメを出された。
そこで苦しまぎれに発したのが「アジャジャアにしてパアでございます」、同時に顔の前で五本の指をフワッと広げた。これが監督、スタッフに受け、さらに観客に受け、いつの間にか「アジャパー」と伴淳は一体となり爆発的なブームを呼ぶことになる。伴はメジャー初主演作『アジャパー天国』『迷探偵アジャパー氏』を撮り、以降は『二等兵物語』シリーズ、『駅前シリーズ』と松竹、東宝の屋台骨を担っていく。
テレビの普及で映画人気が凋落(ちょうらく)しだすと、伴淳人気にも陰りが見え始める。『飢餓海峡』(昭和40年)は、そんな伴の迷いを吹っ切ってくれた記念碑となる作品。犯人の三国連太郎を執鋤(よう)に追う老刑事を演じるに当たり、自分なりに演技プランを立て現場に勇躍乗り込む。ところが、内田吐夢監督は、そんな伴のプライドをズタズタに引きちぎり、踏みつけにするほど罵倒(ばとう)し続けた。
伴は、しょぼくれた刑事弓坂そのものになっていた。内田の狙いはそこにあった。この演技が認められ、伴は毎日映画コンクールの助演男優賞に輝く。撮影中は、憎しみしかなかった内田監督と受賞後自らが経営するおでん屋で会った時には涙ながらに手を握り感謝したという。この時に得た自信が黒澤明作品『どですかでん』(昭和45年)の名演をはじめとする、名脇役(わきやく)、伴淳につながることになる。
伴は、プロデューサー的感覚にも秀で、『二等兵物語』は彼自身の企画。また天才少女歌手美空ひばりが世に出るきっかけを作リ(昭和21年8月・「新風ショウ」)、後に『駅前〜』シリーズで森繁とともに主演トリオを組むことになるフランキー堺のコメディアンとしての資質に目をつけ、ジャズドラマーだった彼を映画界に引っ張り込んだ(『迷探偵アジャパー氏』)。
郷土をこよなく愛し、米沢や上山に映画やテレビドラマのロケを数多く誘致するなど観光PRにも多大な貢献をした。彼の映画祭が今月15日、東根市の東根厚生会館で開かれる。伴淳全盛の昭和30年前後は日本映画の全盛期と重なり合う。今回はそのころの喜劇四本をえりすぐったもの。伴淳の笑いの世界に浸ろうではないか。
「小坂一也さん死す」の報に接す。若き日の主演作『惜春烏』(木下恵介監督)を見たばかりだった。名脇役がまた一人いなくなった。
1997年11月10日 (敬称略)