『もののけ姫』大ヒットの陰に名プロデューサーあり
記録破りのメガヒットとなった『もののけ姫』は、ビデオも驚異的なセールスを示している。このビデオと同時に、もう一つ興味深いビデオが発売された。「『もののけ姫』はこうして生まれた」というタイトルで、映画製作の舞台裏を記録した6時間39分のドキュメンタリーである。
宮崎駿監督の強烈なリーダーシップの下、気の遠くなるような工程のアニメ制作に取り組むスタッフの苦闘ぶり、声の吹き替え、主題歌録音の様子など、そこかしこに、監督の妥協を許さぬ姿勢が現れ、質の高さの一端を垣間見ることができる。
宮崎駿作品を生み出す、工房スタジオジブリ作品の質、支持率の高さ、動員力は、ここ数年の日本映画界においては、群を抜いた存在なのである。
『風の谷のナウシカ』(’84年・宮崎駿監督・トップクラフト)を契機として、その親会社の徳間書店がスタジオジブリを創設。以降、『天空の城ラピュタ』(’86年・宮崎監督)、『火垂るの墓』(’88年・高畑勲監督)、『となりのトトロ』(’88年・宮崎監督)、『魔女の宅急便』(’89年・同)、『おもひでぽろぽろ』(’91年・高畑監督)、『紅の豚』(’92年・宮崎監督)、『平成狸合戦ぽんぽこ』(’94年・高畑監督)、『耳をすませば』(’95年・近藤喜文監督)と、毎年のように作品を送りだしてきた。
ことに、『魔女の宅急便』からの作品は、その年の日本映画の配収1位をすべて独占。最高が『紅の豚』の27億1300万円、平均でも約23億円と、10億円で大ヒットといわれる日本映画界では破格の数字を挙げ続けてきた。しかし、そのジブリブランドをもってしても、『もののけ姫』で当初掲げた60億円という目標は、無謀なものと思えた。
ここでクローズアップされるのが鈴木敏夫プロデューサーの存在。彼はもともと徳間書店の社員で、同社で出している月刊誌「アニメージュ」の編集長をしていた。当時、同誌に連載していた『風の谷のナウシカ』の映画化を、作者の宮崎監督に勧めたことから映画界に足を踏み入れる。それから暫くは、雑誌編集者と映画製作者の二足のわらじを履き、昼夜の別なく働いていたが、宮崎、高畑両監督の信望も厚く、『おもひでぽろぽろ』から映画プロデューサーを専業とするようになる。
『もののけ姫』では、企画から宣伝、興行に至るまで鈴木プロデューサーが陣頭指揮を執る。目標配収に向かって、彼がとった第一の戦略は“脱宮崎アニメ”だった。従来の宮崎・ジブリ作品の自然と子供にやさしい、ほのぼのとしたイメージを打破するため、予告編に敢えて首や腕が切り飛ぶシーンを入れる。
第二の戦略は、ディズニーとの業務提携。ディズニーが配給して世界公開するということで、ハリウッドに負けないグレード感を作り上げた。そして第三の戦略は、興行のライバルを、同じアニメのディズニー映画『ヘラクレス』ではなく、スピルバーグの『ロストワールド』とし、“もののけVS恐竜”のスケール感を強調した。
これらの戦略により、あらゆるマスメディアが、様々な角度から‘宮崎駿・もののけ姫’を報じるようになり、ついには‘国民必見映画’の雰囲気を作り上げてしまう。そして、無謀と思えた目標をクリアするだけでなく、その2倍の配収を上げることに成功する。
長時間のビデオを見終えての感想は、「鈴木さんに見事にしてやられた」だった。
鈴木さんは休む間もなく、高畑監督による新作『ホーホケキョとなりの山田くん』制作と、『もののけ姫』全米公開を同時に進めている。これは、鈴木敏夫プロデューサーからしばらく目を離せそうもないようだ。
1998年7月27日 (敬称略)