真珠湾攻撃〜新旧どう見る?〜『パール・ハーバー』『トラ・トラ・トラ!』
大ヒット中の「パール・ハーバー」は、太平洋戦争勃発(ぼっぱつ)のきっかけとなった、1941年12月8日(米国時間12月7日)の日本軍による、ハワイ真珠湾(パール・ハーバー)のアメリカ海軍太平洋艦隊基地への、奇襲攻撃を背景としたラブストーリーである。
当時、日本政府および指揮を執った山本五十六も、攻撃開始直前に宣戦布告をしたものと信じていたが、さまざまな事情が重なり、開戦通告が米国政府に届いたのは、攻撃から1時間が経過した後のことだった。このことによって、日本は卑怯(ひきょう)者の汚名を着せられ、米国は“リメンバー・パール・ハーバー”を合言葉に第二次大戦に参戦、日本たたきにやっきとなるのである。
ちなみに、戦後、米国のプロレスにおける日系人レスラーは皆、トーゴーやトージョーなどの知られた軍人の名を使い、悪役として観客の憎悪を一身に受ける、憎まれ役に徹した。その際、会場では“リメンバー・パール・ハーバー”の大合唱が沸き上がるのだった。あのジャイアント馬場も、米国修業時代はこの罵声(ばせい)を浴びている。
近年、歴史研究家の調査によると、日本が真珠湾攻撃をするように、ルーズベルト大統領が仕向けたという説が有力視されている。愛国心や日本への敵愾心(てきがいしん)をあおったという点では、もくろみ通りだったのだろうが、2,897人もの兵士・市民の犠牲というのは、いかにも大き過ぎた。
かくしてパール・ハーバーという地名は、戦争を体験した世代には特別なものとして響く。しかし、この映画は、そのあたりの史実を重視して見ると、大きな失望を覚えることになる。極秘の軍会議を、子供が遊ぶ屋外で開くなど、日本側の描き方が極めておざなりなのである。こういう点にいちいちこだわると、腹が立ってくる。製作者が言うように、真珠湾攻撃は、三人の男女のラブストーリーを引き立てるための、単なるドラマチックな設定として割り切れるかが、この作品を楽しめるか否かの分岐点となるようである。
真珠湾攻撃を描いた映画というと、やはり「トラ・トラ・トラ!」(1970年)を想起する。この日米合作プロジェクトは、二十世紀フォックス社の大プロデューサー、ダリル・F・ザナックの手によるもので、日米両国の側から、リアリティーを重んじ、おのおの661シーンずつ撮影するという念の入れよう。米国側監督は「ミクロの決死圏」のリチャード・フライシャー監督、そして日本側、当初は黒沢明監督だった。
撮影開始から三週間後の1968年12月、黒沢はザナックから解任される。原因は“強度の精神的緊張と発作”と発表される。そして代わって日本側監督に指名されたのが、日活の舛田利雄。その時、舛田が最も頼りにしていたのが、助監督の村川透(本県村山市出身)だった。舛田に相談された村川が提示した条件は、特撮班を別に設け、その監督として、東映気鋭の監督、深作欣二を起用するというもの。
村川自身は、12人の助監督を従える日本側チーフ助監督として、見事な采配ぶりを示し、日米のスタッフを刮目(かつもく)させている。その時の村川の活躍を、姫田カメラマン夫人が「幽鬼のようだった」と称し、舛田は後に「僕より作品にのめり込んで陣頭指揮をとってくれる。シャープで的確なその指示のおかげで、僕はただ“用意スタート”の号令をかけるだけでよかった」と述べている。
村川監督は、時代が違っていたら“ハリウッドのイチロー”になっていたのではないだろうか。あらためて「トラ・トラ・トラ!」をスクリーンで見たいものだ。
2001年8月17日 (敬称略)