なぜ止められなかった?『ディスタンス』
米国での同時多発テロから、10日余りがたとうとしているのに、いまだその衝撃はやわらぐことはない。ニューヨーク・マンハッタン島にそびえ立つ、高さ400メートルを超える世界貿易センタービルが、2つとも飛行機の衝突をうけ、次々と崩れゆくさまは、CGやアニメで作り出したバーチャルな世界のようで、とても現実のこととして即時に受け入れられるものではなかった。
ところが、そのビルのがれきの下には、その直前までいつもと変わらぬ日常を送っていた、五千人余りの犠牲者がいるのである。テロリストの武器となった飛行機とて、一般市民が乗っていたもの。罪の無い乗客たちが、テロリストの目的の道具にされたのである。
被害者の遺族ならずとも、その悲しみと怒りは大きい。一般市民を虫ケラのように殺して成り立つ、大義や正義などあろうはずもなく、ブッシュ大統領が「これは戦争だ」と言ったのも無理はない。
崩壊したビルのがれきの下には、五千人もの犠牲者に交ざって、この史上最悪のテロ事件を起こした実行犯も、眠っているのである。この犯人たちの家族はどんな想いでいるんだろう。彼らは、“加害者の家族”であるとともに、“死者の遺族”でもあるのだ。殉教者もしくは英霊とでも讃えているのだろうか。
いかなる宗教を信じようと、罪も無い人を殺していい道理はどこにも無い。きっと苦しみ、悲しんでいると信じたい。これだけ悲惨で非情な無差別大量殺人事件の後で、加害者の家族に想いを馳(は)せることは、きっとなかったと思う。映画『ディスタンス』を観るまでは…。
3年前に起きた、カルト教団による無差別大量殺人事件。死者128人、被害者八千人。5人の実行犯は、教団の手で殺害された。それから、毎年夏に一度だけ、実行犯の遺族4人が集まり、遺灰がねむる湖に手を合わせに行くのだった。その年は、アクシデントから元信者の男と出くわし、信者たちが暮らした山荘で、一夜を過ごすことになる。
“加害者の家族”という後ろめたさと、“遺族”の悲しみを、互いに共有していた。そこに、実行犯になれず生き残った元信者という異物が混入し、いやが応でも、これまで避けてきた現実や記憶と向き合うことになる。どうして、愛する夫は、妻は、兄は、姉は、カルト教団に走ったのか、なぜ彼らを止められなかったのか…。
加害者とその遺族、元信者、そしてわたしたちの間に、どれだけの距離(ディスタンス)があるのだろう。登場人物は、声を張ることなく、普通の距離感で話すために、聞きとりにくいところがあり、思わず身を乗り出し、聞きにいってしまう。
是枝裕和監督は、俳優にその場で状況だけを説明し、あとは自由に、ほぼアドリブに近い形でしゃべらせるという演出で、俳優が役と素の境い目が判然としない状態に陥る“揺れ”が面白い。
愛する者をなくした喪失感は、ぬぐえるものではないが、残された者には確実に明日がやってくる。やりきれなさと前向きな想いを、同時に抱かされた不思議な映画だった。
2001年9月21日 (敬称略)