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50年後再上陸『ゴジラ』 〜本多監督へのオマージュ〜


ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃

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昭和29年3月1日未明、アメリカによるビキニ環礁水爆実験で、日本のマグロ漁船第五福竜丸が被曝(ひばく)するという、ショッキングな事件が起きる。『ゴジラ』はこれにヒントを得て、太平洋上の水爆実験により、海底に眠っていた太古の恐竜が目覚め、日本に上陸、東京を焼け野原にするという設定が考えられ、東宝によって製作。同年11月3日に、記念すべき第1作が公開される。

そして『ゴジラ』は日本国内みならず、ハリウッドをはじめとする海外でも大ヒットした、最初の日本映画となる。特撮を担当したのが故円谷英二、そして監督が、山形県朝日村出身の故本多猪四郎なのである。彼の名「イシロー・ホンダ」は、終生の友「アキラ・クロサワ」と並んで、ハリウッド映画人の尊敬を集めた。

本多『ゴジラ』の素晴らしさは、本多自信も加わった脚本によるところが大きい。

冒頭で貨物船が遭難し、その探索船も沈没する。ここでは、まだゴジラは姿を現さない。そして三人の生存者を救った漁船も、同じ運命になる。唯一、島に流れついて生き残った男が、家でくつろいでいると。深夜に上陸したゴジラに、母もろとも踏み殺されてしまう。この段階で、ゴジラはまだ足しか映っていない。直前に逃げた弟は、天涯孤独の身となり東京に引き取られるが、ここでもゴジラの襲撃に遭うのである。

このように本多演出は、観客を安心させては地獄に突き落とすことを繰り返す。これが、サディスティックなまでに、これでもかこれでもかとなされる。長崎の原爆から生き延びた女性の前に、ゴジラが現れる場面は象徴的。

本多は、殺される側の無念と絶望、そして殺す側の快感を併せもつ“戦争”の象徴として、ゴジラを描いたのではないだろうか。

本多は、日本大学芸術科映画科一期生として卒業後、東宝の前身PCLに入社するも、翌昭和9年、23歳で徴兵検査甲種合格となり、歩兵第一連隊に現役入隊。本多は参加しなかったが、この連隊の青年将校が決起して、二・二六事件を起こす。それが災いし、除隊後、現場復帰を果たしても、間もなく召集され戦地に送られることを繰り返し、延べ8年間の戦場と捕虜生活を送ることになる。

仕事においては、この8年は全くのブランクとなり、後輩で、同じ山本嘉次郎門下生の黒澤明に、大きく水をあけられる結果となる。ちなみに、本多が40歳にして初監督作『青い真珠』を撮った昭和26年、黒澤は『羅生門』でベネチア映画祭で金獅子賞、そして『ゴジラ』の昭和29年には、『七人の侍』で同映画祭銀獅子賞に輝いている。

出世の妨げになった戦場体験だったが、『ゴジラ』を描く際のさまざまなリアリティーには、大きく役立ったようである。本多は、公開時に「破壊の恐ろしさと絶望が、この映画のフィクションの中から切々と心に迫り、一つの反省を世の人々に与え得れば、私としては望外の喜びだ」と抱負を寄せ、この後、本多は「戦争なんてのは、映画で描けるようなもんじゃない。もっとすごいものだ」と言って、東宝の戦争映画は撮っていない。

現在公開中の新作『ゴジラ・モスラ・キングギドラ大怪獣総攻撃』(金子修介監督)は、そんな本多監督へのオマージュが、随所に見てとれる。ゴジラ初来襲から50年後の、二度目の上陸という設定で、“ゴジラ初上陸シーン”を再現。逃げ惑う群衆が走る通りの壁には、本多監督作品『さらばラバウル』(昭和29年)のポスターが貼られ、また、ようやく命拾いをしたと思った若い女性が、ゴジラの尾の一撃で無残な最後を遂げるといったところも、本多演出を思わせる。

本多監督が81歳で亡くなってから、2月で9年になるが、彼の“仕事”は色褪(あ)せることなく、こうして息づいているのを確認させられると、同県人としては嬉しい限り。金子監督に感謝。

2002年1月18日 (敬称略)