村川透監督 古里で講演 〜熱い話、聴衆の胸に響く〜
北朝鮮拉致被害者5人が24年ぶりに一時帰国してから10日がたつ。最初の2日間は表情が硬かったが、古里の土を踏み、家族や親族、友人と触れ合うにつれ、氷が解けるように表情が豊かになり、無邪気に笑い、泣き、遊び、甘えるようになっていく様子が連日テレビで報じられる。
自らを生みはぐくんでくれた風土が、本来の自分を取り戻させてくれる“古里力”とでも言えばいいのだろうか。
“今、私は夢を見ているようです。山、川、谷、みな温かく美しく見えます。空も土地も木も、私にささやく。「おかえりなさい。頑張ってきたね」。だから私も嬉(うれ)しそうに「帰ってきました。ありがとう」と元気に話します”東京では、暗い表情でうつむき加減だった曽我ひとみさんが故郷、新潟県真保町に降り立った時のこの言葉がすべてを物語っている。
彼らだけでなく他の拉致被害者が一日も早く完全帰国し、すべてを洗いざらい話せるようになることを願ってやまない。
古里と言えば、去る10月3日、映画監督・村川透さんが、氏の故郷、村山市楯岡でトークショーを行った。監督が『白い指の戯れ』(1972年)でデビューしてから30周年に当たるということで地元の方々が企画してのものだった。
午後2時からは、母校の村山市立楯岡中で全校生徒を前にして、夢を持ち、その夢を実現するための努力の尊さなどを後輩たちに熱く語って聞かせた。監督は、同校の第1回卒業生で、三年生にとってはちょうど50年先輩に当たる。監督が日活で下積みの苦労をしていた時、既に燦然(さんぜん)と輝く存在で、後に『大都会』『西部警察』などの人気ドラマを共に作ることになる石原裕次郎が亡くなった87年に三年生は生まれ、映画『野獣死すべし』やテレビ『探偵物語』などで、監督と数々のコンビ作品を世に送り出し、一世を風靡(ふうび)した松田優作が亡くなった89年に一年生は誕生したことになる。
だから、彼らにとって、村川監督がこれまで関(かかわ)った作品や俳優はほとんど知らず、反応は鈍いように感じられたが、質疑応答の時間になると、たくさんの生徒がわれもわれもとこの偉大な先輩と話をするために手を挙げるという嬉しい光景が広がった。村川監督の熱い話が、彼らの胸に響いたことが、その目の輝きに表れていた。
監督も、母校での講演に、特別の感慨があったのだろう。終盤で突然、生徒たちに呼びかけて“うーさぎ追ーいしかーのーやーまー”と唱歌『故郷』を大合唱し、講演後も、校歌を在校生と共に朗々と歌う姿に古里への思いがいかに強いかがうかがえた。
そして夕方6時からは、市民会館で、一般のファンを前にユーモアを交えながらの2時間にも及ぶトーク。交流会には、幼なじみが数多く参加し、あちこちから「トオルちゃん」「トオルちゃん」と呼ばれ、さしもの名監督もこの時ばかりは童心に帰っていたようである。
村川透という映画監督は、松田優作とのコンビ作品の印象があまりにも強いために、ハードボイルドアクションの監督と括(くく)られがちだが、昭和30年半ばの日本映画全盛時から日活で石原裕次郎、小林旭、浅丘ルリ子、赤木圭一郎、宍戸錠、吉永小百合、浜田光夫、高橋英樹、渡哲也らとアクション、青春、文芸…と数々の作品を、舛田利雄、西河克己監督たちの下で作ってきた人なのである。この時に培った力があったからこそ、65歳の今もなお、質の高い作品を作り続けているのだろう。
今年、県内では、恩地日出夫、斎藤耕一、山田洋次という錚々(そうそう)たるベテラン監督たちが映画の撮影を行い、活気づき、それはそれでありがたいことである。
しかし、森の石松の『千石船』のくだりではないが、山形県民に敢(あ)えて言いたい。「誰か、大事な人を忘れちゃぁいませんか」って。
2002年10月25日 (敬称略)