『夢追いかけて』 〜不屈の闘志と努力〜
静岡県舞阪町に目の見えない中学教師がいる。そこに生まれ育った彼は、先天性の目の病気で右目にかすかな視力があるだけだった。それも中学三年生の時にすべての光を失う。
高校は東京の盲学校へ進学。幼いころから大好きだった水泳に高校でも打ち込み、17歳の時バルセロナ・パラリンピックに出場、銀メダル2個、銅メダル3個を獲得する。そして子供のころから目標としてきた教師になるため、早稲田大教育学部に進学。水泳部で練習を重ね、1996年、21歳でアトランタ・パラリンピックに出場し金メダル2個、銀、銅を1個ずつ獲得。
そして卒業後、念願かない、母校舞阪中の社会科教師となる。教師になってからも2000年シドニー・パラリンピックで金メダル2個、銀メダル3個を獲得。そして次のアテネ・パラリンピック出場を目指している。
この目の見えない教師・河合純一さんの半生を描いた映画「夢追いかけて」が10月、山形フォーラムで公開される。物語の外枠だけを書き連ねると、目の見えない主人公がハンディキャップにめげず不屈の闘志と努力で夢をつかんだ単純な成功譚(たん)のようだが、そのようなステレオタイプには納まっていない。
右目にかすかな視力があるだけだった子供時代から、明るく活発だった河合さんの周囲には常に幼なじみの友人がいて、歩く時は友人の肩に手を添えるのが当たり前だった。それをこまやかな愛情で見守る両親。中学3年で全く目が見えなくなり、水泳を断念しかけた自暴自棄の彼を支えた恩師、地域の人々、盲学校の恩師…。多くの人たちの思いやりと協力があってこそつかみ得た成功だった。
青年時代の純一役を河合さん本人が演じている。変わりばなに少々の違和感はあるが、三浦友和や田中好子を相手に堂々の熱演ぶりである。
教師になってからも生徒の肩に手を置いて歩く何げない姿に感動する。河合さんが肩に手を置くということは、自分の身を預けるのと同じである。彼にはそのような大きく信頼を寄せられる友達、恩師、生徒そして家族がいる。これは昭和30年代、40年代の話ではなく、忌まわしい少年犯罪や教師の不祥事が日常茶飯事となった。“今”の話だからこそ余計に感動が大きい。
河合さんは、現状に満足することなく、今年4月から2年間、早稲田大大学院で学び直し、夢を追いかけ続けている。
山形市の山寺中3年で野球部員の後藤亮介君には、左手の肘(ひじ)から先がない。キャッチボールは右手で投げてから、左の二の腕に挟んでいたグラブを右手にはめ、相手からのボールを受ける。バッティングでは左打席に立って、右手にバットを持ち、左の二の腕で支えて構え、右手1本でスイングする。
ポジションはセカンド。機敏さを要求されるために、打球を右手グラブで受けたら、そのままグラブで1塁や2塁にトスをする。離れた所には、ボウリングのようなバックスイングをして勢いをつけトスをする。並外れた苦労と努力を重ねたことは容易に想像がつく。
亮介君が左手を失ったのは、生後1年前後の不幸な事故によってだった。彼にとっても、友人たちにとっても、物心ついたころにはそうなっていたので、特別なことではなかった。
小学生になると、1歳上の兄の影響もあり野球をやるようになった。山寺小から山寺中へ野球仲間もそのまま進み野球部へ。ちなみに亮介君の学年は男子が15人で、うち11人が野球部、4人が卓球部だそうである。
亮介君は、3年生最後の中体連では2塁手として試合に出ることはなかったが、ハンディキャップのせいにすることなく、単に実力で負けたと語る表情がすがすがしい。やはり中学時代野球部で正選手になれなかったことを視力低下のせいにしたり「他の中学だったらレギュラーになれた」などと口にしていたわが身が恥ずかしい。
毎日、自宅から学校まで片道3キロの道のりを小中の9年間歩き通せたのも、家族、友人、恩師、地域の人々の支えがあったればこそで、またそうさせる魅力が彼にはあったのだろう。彼の将来の夢はシステムエンジニアになること。来年4月には高校へ進学する予定。
「夢追いかけて」―。いよいよ山寺の外に足を踏み出す。亮介君の新たな歩みが始まる。
2003年7月18日 (敬称略)