[No.01] 花の43年組
阪神タイガースが、地元甲子園球場でセ・リーグ優勝を決め、星野監督が歓喜の胴上げに5度6度と宙を舞った。阪神ファンにすれば、18年間待たされ た末の優勝ということで、球場を埋めつくしたファンと選手たちが一体になっての万歳三唱は、永遠に続くのではと思えるほどの盛り上がりをみせた。その熱狂 の中で、星野監督と田淵チーフ打撃コーチが感涙にむせびながら、ひっしと抱き合う姿に特別な感慨を覚えた。
星野仙一と田淵幸一は大学時代からのライバルで親友だっ た。星野は明治大学のエース、田淵は法政大学の捕手で四番打者。法政大には、田淵のほかに山本浩司(現浩二)、富田勝と、法政三羽ガラスと呼ばれる強打者 がそろっていたが、田淵の打撃は群を抜いていた。立教大学時代の長嶋茂雄が記録していた、東京六大学通算本塁打8本を大きく上回る22本を打った、大学球 界のスーパースターだった。
そんな彼らが大学4年の昭和43年11月、ドラフトによって田淵は阪神、星野は中日、山本は広島、富田は南海から共に一位指名を受け、結果的には入団するが、田淵と星野にとっては不本意なドラフトだった。
田淵は少年のころから巨人にあこがれ、巨人入団を熱望していたが、これほどのスラッガーを他球団が放っておくはずがなく、指名は競合し、阪神が獲得し田淵は涙をのんだ。片や、星野も巨人志望であった。 こちらは「田淵の指名にハズれた場合の一位指名に」という、ハズレ一位の確約を、巨人のスカウトから得ていたのだ。
屈辱的ではあるが、田淵が相手では致し方ないところだった。ドラフトは、星野が望んだようになりつつあったが、読み上げられた巨人のハズレ一位選手の名は、島野修という高校生だった。星野は思わずわが目わが耳を疑い、報道陣の前で「島と星の間違いじゃないのか!」と叫び、悔し涙を浮かべた。
その二人が、35年の月日を経て、阪神の指導者として共に戦い、前年度覇者の巨人を完膚なきまでたたきつぶして、ぶっちぎりの優勝を勝ち取ったのだ。顔をくしゃくしゃにしながら抱き合う二人に、巨人ファンの私でも思わず「おめでとう」と声をかけたくなった。
ところで、彼らがドラフトにかけられた昭和43年は、ほかにも山田久志、福本豊、加藤秀司、東尾修、大橋穣、金田留広、藤原病ら鐸々(そうそう)たる選手が名を連ね"花の43年組"と呼ばれている。東京オリンピック100m日本代表の飯島秀雄も走りのスペシャリストとしてロッテのドラフト九位で入団している。
この"花の四十三年組"の一員として、東映にドラフト六位で指名され入団したのが、日大山形高の強肩強打の大型捕手、小山田健一さんだっ た。当時、私は小学五年生で、小山田さんの活躍にあこがれた野球少年だった。そのあこがれの人が一昨年3月に、がんのため五十歳の若さで他界していた。そ の事実を知らずにいた無念の思いと、野球人として生涯を全うされた故人への尊敬の思いを、どうしても伝えたいの一心から、本紙に今年5月寄稿。
それは、私が8年聞本紙(山形新聞)に連載していた「シネマ遊楽館」とは全く別のもので、掲載される保証のない文章だったが、思いは通じ、5月30日付夕刊に掲載される。すると「自分も小山田さんにあこがれていましたと、初対面の方からよく声をかけられるようになり、本紙に投書も寄せられる。多くの人の心の中に、小山田さんが確実に生き続けていたことがうれしかった。
波紋は広がり、神奈川県川崎市在住の、故小山田さんの妻・恵さんからも感謝のお電話を頂き、そして、お母さまのよしえさんからも本紙にお手紙が寄せられる(9月9日付夕刊掲載)。反響の大きさに自分が一番驚くと同時に、感謝の思いでいっぱいである。
恵さんの話によると、小山田さんの二男・貴雄君は190cm の長身で、青森大学で投手として活躍中とのこと。貴雄君がプロのマウンドで投げる雄姿を見ることが、小山田さんの夢だったという。同期の田淵や星野のよう な、華々しい活躍をすることはできなかったが、縁の下でしっかりとブロ野球を支えた、小山田健一さんの背中を見て育った貴雄君が、プロの強打者をバッタ バッタとなぎ倒す。そんな光景を早く見たいものだ。
2003年9月29日 「花の43年組」