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[No.03]  金子ていの詩を歌に

昨年5月、本紙「シネマ遊楽館」において金子ていのことを書いたのを覚えておられるだろうか。山形市蔵王上野出身で、子供のころは、児童文芸誌「赤い烏」に数多くの自由詩、自由画を投稿し、選者の北原白秋に高く評価され「詩の少女」の異名をとった女性で、成人後は女子青年教育活動に携わる。戦後、文部省職員となり、婦人の地位向上のために心血を注ぎ、又部省教育局婦人教育課の初代女性課長にまでなっている。

38歳の時、先立った妻の子を5人も抱える48歳の作家・外村繁と見合いをする。ていは初婚でもあり、周囲は反対したが、外村の作品から滲(にじ)み出る人柄に惚(ほ)れ込み、反対を押し切って結婚。結婚後は、先妻の子供たちを立派に巣立たせ、外村にも山形を舞台とした秀作を書かせたが、文部省の課長となった矢先の1961年7月、11月と相次いで外村とていは癌(がん)のために他界。てい、50歳の若さだった。

この二人の12年余りの夫婦愛を、外村と同郷の滋賀県出身の監督が映画化を企画し進めようとしていたことから、応援の意味を込めて本紙に書いたのだが、土壇場で監督と製作会社の折り合いがつかず、残念ながら映画化の話は立ち消えとなってしまった。

恥ずかしながら、私はこの映画の企画によって初めて金子ていを知るのだが、この企画以前からていのことを調べ、その生涯を本に残そうとしていた人物がいた。前県議の荒井進である。荒井はていと同じ蔵王上野に生まれ育ち、堀田第二小(現蔵王二小)の後輩にも当たるので、郷里の偉人を世に知.らしめたいとの熱い思いからのものだった。

昨年12月に刊行されたその書「金子ていの生涯を綴る」は、少女時代のていが「赤い烏」に投稿し入選した作品が並ぶだけでなく、その周囲の作品、そして白秋の選評も掲載。ほかにも、社会人になってからの活動や外村繁とのことも詳述してある労作である。

この書で明らかになったのは、突然、天才文学少女が現れたのではなく、ていが堀田二小尋常科三年の時の若き担任教師・太田天龍が熱心に子供たちに自由詩を書かせ「赤い烏」に投稿してくれたことや、太田が同僚の山口喜市にも「赤い鳥」を薦めたことで、山口が後に転勤した山形市椹沢小の生徒も活発に投稿し入選していたこと、北村山大槙小にも森儀八郎という教師がいて盛んだったことなど、熱心な教師によって教え子の才能が掘リ起こされ、花が開いている様子が垣間見られる。

うれしいことに、ていの少女時代の詩が80年の時を経て、この秋、一人のミュージシャンによって新たな息吹を与えられ、歌になってよみがえった。そのミュージシャンは米国コロラド州在住の岩瀬明美。岩瀬は東京の両国で生まれ、12歳から作曲を始め、19歳の時からロックバンドで活動。20歳になり勇躍、本場アメリカに渡る。女性ロック歌手ジャニス・ジョプリン全盛のころだったが、行ってみると本場のレベルの高さに、自分が井の中の蛙.(かわず)だったことを思い知らされる。

ソウル、ロック、ジャズ、カントリー、シャンソン、中南米音楽…とさまざまな音楽と出合い吸収し、行き着いた所が故郷日本の民謡だった。それはナイロビの伝統音楽の影響を受け岩瀬流にアレンジしたもので、民謡が、ソウル、ブルース、フォルクローレにも聞こえる岩瀬ワールドの確立だった。それから25年、コロラドを拠点に家事や子育てをやりながら音楽活動を続けてきた。そんな岩瀬を山形放送デンバーオフィスの加藤晴巳記者が紹介したことが契機となり、おととし12月、山形で初コンサート。そこで人気を博し、山形発で日本各地に飛び火、国内でライブを重ねるようになる。

そして今夏、山形の支援者からコロラドの岩瀬に荒井進著「金子てい」が贈られる。ていの少女時代の詩を一気に読んだ岩瀬は、月を題材にしたものが多いことに気づく。幼いころ母を亡くした岩瀬は、その寂しい思いを月に語りかけていたことなどから、月に対する思い入れはひとしおで、自らの会社名も「ムーン・ブラッサム」としているほどだった。ていの「月」の詩5編を基にしてそれに曲をつける。ていが岩瀬に乗リ移ったかのように曲は5分で完成。タイトルは「月夜の晩に」。遥(はる)かな時間と距離を超えて山形から一つの歌が誕生した。なんてすてきなことだろうか。

岩瀬はコロムビアミュージックエンタテインメントと10月に契約。本格的に国内で活動を開始する。今月30日には「題名のない音楽会」(山形テレビ)に出演。27日には山形テルサでコンサートを行い、そこで、金子ていとの合作「月夜の晩に」を初披露する。


 2003年11月21日 「金子ていの詩を歌に」