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[No.06]  600通の手紙


 YBCラジオで、毎週月曜の夜8時から「なつメロリクエスト電話でこんばんは」という番組があるのをご存じだろうか。(現在は『なつかし楽し歌謡アワー』と名前が変わりました)かくいう私が、夢あられという女性とパーソナリティーを務めているのだが、リスナーからの電話リクエストで、曲にまつわる話に時々心を揺さぶられることがある。

 2004年1月19日の放送で「昨年の11月8日に妻が癌(がん)で亡くなったんですね。それで妻が大好きだった西郷輝彦の『君だけを』をお願いします」と、山形市の斎藤志直(しなお)さんからリクエストがあった。聞けば、奥さんのるりさんは1年10カ月の闘病生活の末に、53歳の若さで亡くなったとのこと。

 志直さんは藤島町、るりさんは四国・高知県の出身。 同い年だが遠く離れた地で生まれ育った二人が出会い、親しくなったのは「中2コース」という月刊誌を通じた文通によってだった。中学2年の昭和40年1月 19日に文通をスタート。つまり、志直さんが番組にリクエストした日は、二人にとって文通開始から三十九周年に当たる記念日だった。

  二人が初めて顔を合わせるのは、志直さんが高知に 足を運んだ高校二年の時。初対面ながら、この時には互いに恋心を抱くようになっていた。志直さんは言う。「お互いに大学へ行ったりなんかして、離れたり、 くっついたりとかさまざまとあったんですけど、相手のことが忘れられないと言いますか、お互いの心の中に相手のことがしっかりとあったんで…。昭和51年 に結婚したんです」。文通を始めてから11年後のことだった。今、志直さんの手元には、二人がやりとりした手紙が600通も残っているという。

  11年もの長きにわたって、果たして遠距離恋愛が続くものだろうか、600通もの手紙をよく二人とも捨てずにいたものだ、と放送後も志直さんとるりさんのことが頭から離れず、ついにこちらから電話して、志直さん宅を訪れた。

  600通の手紙は、日付順に整理され並べられていた。肉筆の文字は、その時々の二人の気分や感情をあらわにしていた、文学、映画、音楽などの趣味から、世の中へ の疑問、身近な悩み、夢、希望、愛――昭和40年代前半から半ば、時代は’70年安保、全共闘運動が激化していた時だった。共に、相手が間違っていると思 えば指摘し、叱(しか)り、落ち込んでいれば励ます。当時の"若者たち"がそうだったように生真面目(きまじめ)なほど、真筆(しんし)な言葉が並んでい た。

  このように前半は、少年と少女の屈託のないやりと り、いわば青春の1ページなのだが、20歳を過ぎた辺りから、男と女の恋愛の葛藤(かっとう)へと変わっていく。互いの思いをぶつけ、時には残酷なまでに 傷つけ合うという凄絶(せいぜつ)なものとなっていた。しかし、それは、生涯にたった一人の愛する人はお互いしかいない、ということを確認するには十分過 ぎる作業だった。そして、晴れて25歳の時に結婚

  高知から藤島に嫁いだるりさんは、志直さんの仕事(銀行員)の都合で鶴岡、仙台、山形と慣れぬ土地での暮らしが続いたが、その持てる愛情とエネルギーを惜しむことなく夫と二人の息子に注いだ。るりさんは、夫に「子どもたちに伝えるべきものは伝えたと思う。」と言い残して旅立っていった。

志直さんは「僕は今でもるりを愛しています。」と毅然(きせん)と言う。600通の手紙を読み返すということは、10代半ばから20代半ばまでのるりさんと自分に再会し、新たに対話を重ね、そしてあらためて互いの強い愛を確認するということにほかならなかったようである。

  絵文字・省略文字を駆使し瞬時に相手に伝えられるメール全盛の今だからこそ、手書きの手紙で、最短で往復一週間もかかるような文通で愛を育(はぐく)んだ志直さんとるりさんの物語はより一層の輝きを放つ。