[No.12] 永遠のモータースポーツ青年、小川日出生さん
村山市で自動車整備工場「村山ピジョン」を営んでいる小川日出生さんは、若き日にモータースポーツに魅せられ、現在「RSオガワ」というチームを率い、毎年カーレース「スーパー耐久シリーズ」クラス2(3500cc以下)に参戦している。
家業の自動車整備業は、父三郎さんの代から。「村山ピジョン」という店の名は、起業したころ、販売・修理で扱った三菱のシルバーピジョンというスクーターの名にあやかってのもの。
小川さんは、1949(昭和24)年6月生まれ。トヨタが大衆車の意味をもつ「パブリカ」を発売したのが12歳の’61年6月のこと。’62年9月には三 重県鈴鹿市に鈴鹿サーキットが完成。同年10月、晴海で開かれた第9回全日本自動車ショーでは入場者が百万人を突破するなど、爆発的なモータースポーツ ブームが到来する。 そんな時代風潮と家庭環境から’64年、当然のように東根工業高校自動車科に進学。
授業後も学校に残り、愛好会のような形で森正次郎先生の指導を受けると、ますます自動車が好きになり、夢中になっていくのだった。
卒業後、’67年4月山形三菱自動車に入社。酒田営業所に配属され整備を担当する。この酒田時代に「ジムカーナ」というタイムトライアル・レースに出合う。これは、自動車学校などの舗装路面に幾つかパイロンを立て、スキーの回転競技のようにコースを走り、タイムを競うというもの。このころ、初任給1万5千円のうち下宿代の1万円を引かれると5千円しか残らなかった。
レースはやりたいし、酒田で出会った恋人の則子さんと デートもしたいけどお金がない。「おれがモータースポーツやれだのも、あんどき家内が協力してくれだおかげなんだ」と小川さんはしみじみ語る。則子さんと は、現在の奥さんのことだが、この言葉で、則子さんが当時いかに、小川さんを陰ながら支えたかがうかがえる。小川さんは3年間酒田で勤務した後、退社。村 山市へ帰り、家業に就く。則子さんとはその後も交際を続け、’73年3月8日、めでたく結婚。
新婚旅行には小川さんの運転する車で、その日のうちに旅立つ。車には自炊用の携帯用こんろが積まれていた。目的地は、静岡県にある富士スピードウェイ。 当時、日本には、鈴鹿サーキットとこの富士スピードウェイの2ヵ所しかレース場はなく、小川さんにとってはあこがれの聖地だった。そこで、何人も命を落と しているという危険な30度バンクの外側に車を止め、車中で1泊。
翌日、レース場にあるドライバーズサロンに行ったら、当時のトップドライバーたち、生沢徹、風戸裕、鈴木誠一、酒井正らがいた。3月20日前後にある富士グランドチャンピオンレースのテスト走行に来ていたのだった。初対面ではあったが、彼らから結婚祝いに、持っていったご祝儀袋にサインをもらう。これを昨日のことのように語る小川さんは、同級生に自慢話をしている少年のようである。
結婚後もモータースポーツへの情熱は増す一方で、ラリーを始める’75年、オーストラリアのサザンクロスラリーにナビゲーターとして参加してからは、よりラリーにのめり込んでいく。このころ、篠塚健治郎たちと出会い、友情をはぐくんでいる。翌年から全日本ラリー選手権に出場し、その名が東北から全国に知られるようになる。
その後、38歳でサーキットのレースに転向。ミラージュのワンメークレースで関東を制し、’87年からの東北シリーズ立ち上げの原動力となり、’89年から3年連続チャンピオンとなる。
そして、’91年から始まった年間8戦のスーパー耐久シリーズに「RSオガワ」チームで参戦、現在に至る。潤沢な資金に恵まれたワークスと呼ばれるプロのメーカー車に伍(ご)して、個人のプライベートチームで挑みながら、毎年のように優勝争いを演じ、ついに’99年、年間シリーズチャンピオンに輝いた。翌年も連覇の快挙を成し遂げている。
小川さんは、ラリー車のイメージが強かったランサーをサーキットに持ち込み、レースで初めて乗り、定着させたパイオニアでもある。
チームの監督として、エンジニアとして、時にはドライバーとして、55歳の今もモータースポーツへの情熱が色あせない小川さんのバイブルは、40年前に入学して学んだ東根工高自動車科の整備士五カ条の教訓だと言って、そらんじてみせる。
「一つ、端正な服装態度にけがはなし。一つ、どんなに小さな作業にも全力を尽くせ。一つ、機械工具はわれわれの生命。一つ、一片の鉄くずも無駄にするな。一つ、指示された作業は、終われば必ず報告」
この教訓と「メジャー、中央なにするものぞ」の気概を胸に、小川さんは13、14日、栃木県でのシリーズ最終戦に年間2位を懸けて挑む。
2004年11月8日 「永遠のモータースポーツ青年 小川日出生さん」