[No.16] ひまわり娘・伊藤咲子 (下)
華々しいアイドル時代から10年が過ぎ、人気が下火になりテレビ出演もめっきり減った。地方を回って稼ぎはあったが、あれほど好きだった歌が、惰性になりつつあった。伊藤咲子さんは、歌手活動の潮時を考えるようになっていた。
そんな時に実業家の伊佐光市さんと出会い、結婚。何でも徹底しないと気が済まない咲子さんは、潔く歌手の世界から身を引く。31歳になろうとしていた。十代半ばから歌手として働いてきた咲子さんは、専業主婦に少々戸惑いを覚えていた。そんな咲子さんに伊佐さんが、小さなクラブをやらないかと勧める。咲子さんは、即座に飛びついた。
クラブのママとして恵比寿で5年、六本木に移転して6年の計11年、しゃかりきになって取り組んだ。はじめのうちは、歌手・伊藤咲子を引きずり、身構えていたため、ファンとして咲子さん目当てで来た客も緊張し、楽しめず早々に帰るという悪循環を繰り返すが、3年目くらいからようやく、本来の明るさとユーモアセンスを発揮し、客との会話が弾み出すと同時に店も繁盛してくる。
店と家事の両立にやりがいを見いだしたこのころから、下腹部に痛みを覚えるようになる。子宮筋腫だった。咲子さんの場合は子宮内膜症との合併症で、子宮腺筋症という激痛を伴うもので、七転八倒の苦しみが襲ってきた。医師は摘出手術を勧めたが、子供を産みたいと願っていたので、手術はせずに、痛み止めの薬を飲みながら、だましだまし過ごしていた。筋腫とは9年近くも付き合ったが後半は、強い薬に朦朧(もうろう)とすることさえあった。筋腫は拡大する一方で、他の臓器を圧迫し、命にかかわるほどになる。つらい決断をせざるをえなかった。
43歳の時、手術を受けるために入院。店を閉めた。自宅から往復数時間の道のりを毎日運転して店に通い、遮二無二頑張ってきたという達成感はあった。
手術は成功。しばらくすると、生来の負けん気、向上心が頭をもたげてきて、パソコン教室に通い始める。まさに「四十の手習い」だった。短期間でブラインドタッチを身に付けたばかりか、2年間通ううちに国際的に通用する資格を2つも取得する。
そんな時に、ミュージック・オフィス合田の合田道人社長から歌手復帰の誘いがかかる。17年ほどのブランクがあり、歌手としてやっていける自信はなかった。しかし「歌いたい」という思いがよみがえってきた。
咲子さんは、復帰に当たって事務所に一つの条件を出す。インターネット上でホームページを作ってほしいというもの。2年間のパソコン教室通いで、咲子さんはホームページの必要性を感じていた。事務所の答えは、ホームページを開設・管理できる人材がいないという理由で「ノー」だった。
そんな時に、長年の親友・岩崎宏美さんから一人の男性を紹介される。彼は、アイドル時代からの咲子ファン。出張先の札幌で同世代の同僚三人と飲んだ時に、1970年代アイドルで誰が好きだったかという会話になった。「山口百恵」「桜田淳子」と言う同僚に対し、「自分は伊藤咲子が好きだった」と主張。その後、東京に帰ってからも「かつて夢中になった咲子さんは今どうしているんだろう」と気になり、何とか咲子さんの役に立てないだろうかと思い立つ。
引退していた咲子さんの連絡先がわかるはずもなく、彼がアプローチしたのは、今でも親友であるだろう岩崎さんだった。岩崎さんのコンサート会場に出かけ、自分の思いを熱く語り、信用してもらい、ついに岩崎さんから咲子さんに紹介してもらった。彼は、パソコンやインターネットに精通。ホームページを開設・管理できる人材が現れたのだった。
この男性の協力で、歌手復帰の条件としていたホームページを2003年6月に開設。以来、掲示板へのファンのメッセージには、自らキーをたたいて応えている。
そして、45歳での歌手復帰に向けて始動する。店のカラオケで客と歌ってはいたものの、声帯の筋肉が楽な部分で固まってしまい、高音が思うように出なくなっていた。「こんなはずでは」と思いながらも、新たにボイストレーナーの指導を受けるようになる。翌2004年6月26日には、デビュー三十周年コンサートを、東京代々木の古賀政男記念けやきホールで開催することが決定。なんとか、それまでに100%に戻したいと焦っていた。
その3ヶ月前、3月27日には自分のルーツのある山形市で、ディナーショー2ステージを行う。ホームページ効果で、昔からのファンが奈良や東京から駆けつけ、もちろん母や姉も東京から応援にやって来た。祖父母の故郷で、声の調子はほぼ戻っていた。「ひまわり娘」「乙女のワルツ」など、おなじみのヒット曲やGSメドレー、「あなたしか見えない」(伊東ゆかり)などを伸びやかに歌い、聴衆を堪能させた。
そして、6月の30周年記念コンサートは、大盛況のうちに幕を下ろす。また、ファンの強い要望で9月5日には新宿文化センターで追加コンサートを行い、喝采(かっさい)を浴びた。
咲子さんは、かつての声を完璧に取り戻したことに満足せずに、より音域を広げようと、トレーニングに励んでいる。生来の明るさにお店で培った話術、そして最盛期をもしのぐ歌唱力を備えた咲子さんは、今「歌うことが楽しくて仕方がない、歌っているときが一番幸せ」と、声を大にして言う。
「山形は私の故郷」と咲子さん。47年前の桜満開の時に生まれた「ひまわり娘」は、これから歌手として満開の季節を迎える。
2005年2月9日 「ひまわり娘 下」