荒井幸博オフィシャルウェブサイト シネマパーソナリティ、映画解説、フリー結婚式司会者。プロデュース、進行等お任せください。

[No.15]  最後の30勝投手・皆川睦雄さんをしのんで


米沢市出身の元プロ野球選手・皆川睦雄さんが去る2月6日、敗血症で亡くなった。享年69歳。


武田忠一さん、筆者、皆川さん、嶋貫仁一さん皆川さんは、南海ホークスひ と筋に、18年間投手として投げ続け、通算221勝139敗、防御率2.42という輝かしい成績を残した名投手である。1968(昭和43)年には、31 勝10敗、防御率1.61という驚異的な数字を収めている。このシーズンは、デビュー15年目の33歳で、体力的には峠を越していたにもかかわらず、 352回1/3を投げる大車輪の活躍を見せている。

この年8月11日、自身にとって初の20勝がかかった試合では、ホームに滑り込んだ際、捕手とのタッチプレーで、腰に亀裂骨折を負っている。この時南海は、首位の阪急ブレーブスとデッドヒートを演じていて、エースが離脱するわけにはいかなかった。けがを監督やチームメートに隠し通して、10月11日まで投げ抜いての31勝なのだから立派である。 1965年以降昨年までの40年間で、30勝以上を挙げたのは、この年の皆川投手だけなのだから誇らしい。これから先も現れることはないだろう。


長年にわたる県高校野球界の低迷によって、指導者を県外から招くだけではなく、球児まで越境入学させ、甲子園を目指すようになっていた。


私は、何でもかんでも人材を外に求めるのではなく、米沢で生まれ育ち、地元中学・高校で野球選手として活躍し、プロ野球選手として大成した皆川さんのこと を、深く知るべきではないかと思うようになり、事あるごとにそのことを口にするようになっていた。「意のあるところに道は通ず」とはよく言ったもので、言 い続けて6年ぐらいたった2000年11月に、初めて皆川さんに紹介いただき、2時間ほどお話を伺う機会に恵まれた。


皆川さんは、180センチのスラリとした長身で、ロマンスグレーのすてきな紳士だった。南海入団の1954年以来大阪住まいのため、話す言葉はすっかり関西弁になっていた。


七人兄弟の末っ子として生まれ、2歳の時に父に先立たれ、貧しい家庭環境の中、家業の運送店を手伝って、小学6年生の時には米俵60キロを担ぐほどになっていたことなどを、明るく快活に話してくださった。

10歳で野球に出会い、山上中、米沢西高(現米沢興譲館高)と野球に打ち込んだこと、雪の上でのランニングこそが、強靭(きょうじん)な足腰を培ってくれたこと。この人にかかるとともすればハンディキャップと思えることが、有利な材料に思えてくるから不思議である。


このプラス思考こそが、プロとしてこの人を超一流まで押し上げた原動力なのだろう。

南海同期の高卒ルーキーの宅和本司が、 1年目26勝、2年目24勝と勝ち星を量産している時に、皆川さんは1勝もできないままでいたが、腐らずに黙々と練習を積み、ついに3年目に11勝(宅和 6勝)を挙げている。4年目には、18勝10敗の好成績を収め真智子夫人と結婚。ところが、シーズン後に肩を壊し、それまでの上手投げから下手投げに転向 する。

この転向は成功し、17勝8敗と前年と遜色(そんしょく)ない成績を挙げるが、この入団5年目の1958年は、立教大学から鳴り物入りで杉浦忠が入団し、いきなり27勝12敗の大活躍。皆川さんの下手投げ転向の成功は、すっかりかすんでしまった。


皆川さんと同じ下手投げで、同年齢の杉浦は、翌1959年は38勝4敗の成績を収めたばかりか、巨人との日本シリーズでは、一人で4連勝を挙げる離れ業を演じている。 杉浦は翌年も31勝を挙げているが、若いころの酷使がたたってか、通算成績は皆川さんより34勝少ない187勝106敗に終わっている。

皆川さんは「万年二番手」などと陰口をたたかれながらも黙々と努力を続け、33歳で31勝を挙げ、パリーグのエースと呼ばれるまでになったのである。雪国・米沢は、皆川さんに強靭な足腰だけではなく、粘り強い不屈の精神力も授けてくれていた。


皆川さんとトークショーで2001年7月20日、米沢市民文化会館で「上杉鷹山生誕二百五十年祭・皆川睦雄トークショー」で聞き手を務めさせていただく光栄に浴し、そしてその2日後には、炎天下の上杉スタジアムで高校野球を一緒に観戦させてもらった 。

皆川さんと、興譲館高野球部のチームメートとの友情は、何よりも大切なものだった。その日の観戦も、バッテリーを組んでいた捕手の嶋貫仁一さん、センターでトップバッターの武田忠一さんと一緒。試合は、母校の興譲館高対東根工業高。皆川さんたちは、母校の選手のユニフォームに、50年前の自分たちを重ね合わせていたのではないだろうか。

孫のような選手たちを見つめる優しいまなざしと、母校の勝利を喜ぶ無邪気な笑顔が、昨日のことのように思い出される。 皆川睦雄さん、あなたは、われわれ山形の野球少年にとっての夢であり、あこがれでした。慎んで、ご冥福をお祈り申し上げます。


 2005年3月30日 「最後の30勝投手・皆川睦雄さんを偲んで」