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[No.17]  俳優・赤塚真人さん (下)


8歳と5歳の子供を抱えて、シングルファザーとなった俳優赤塚真人さんは、住まいを東京・代官山から、年老いた母親が一人で暮らす、故郷茨城県筑波郡伊奈町に移した。


子供たちと一緒に居てやりたいと の思いから、遠くでのロケが多い仕事は極力断った。仕事と収入は減ったが、子供と田んぼでザリガニやドジョウを捕ったり、川や沼に釣りに行ったりの田舎暮 らしは、楽しいものだった。朝晩の食事だけでなく、毎朝子供たちの弁当を作り、学校行事にも積極的に参加した。長女が高校、長男は中学に進学し、手が掛か らなくなってきた辺りから、再び俳優業に本腰を入れようと思い始める。


赤塚さんを慕う脚本家や若手俳優と、「マリア…映画館、襲撃!…そして優しい闇の訪れ」という芝居に取り組んだ。2001年6月のことだった。この芝居の成功により、赤塚さんが座長となって劇団TA2を旗揚げする。


再び役者魂に火がついた赤塚さんの元に、その年11月、なんと山田洋次監督から「たそがれ清兵衛」(2002年)への出演要請があった。若いころから「男はつらいよ」をバイブルとし、「同胞(はらから)」(1975年)出演で役者として開眼した赤塚さんにとって、山田監督はあこがれの存在であり、恩師でもある。


山田作品への出演は、「男はつらいよ知床慕情」(1987年)以来15年ぶりのこと。「よく、赤塚真人を忘れずにいてくださった」と、涙が出るほどうれしかった。

赤塚さんは、真田広之ふんする清兵衛の同僚下級武士で、お調子者の矢崎を軽妙に演じ、山田監督の期待に見事応える。そして「隠し剣鬼の爪」(2004年)にも出演、「笑い」を一手に引き受けていた。


「たそがれ清兵衛」で、赤塚さん最後の出番となった彦根城での撮影終了後、彼は思い切って山田監督にお願いした。「一緒に写真を撮らせてもらえませんか」山田作品にはそれまで、脚本作も含め7本ぐらい出ているのに、記念写真をお願いしたのは初めてだった。念願かなって山田監督と一枚の写真に納まった赤塚さんは、感激のあまり人目もはばからず大粒の涙を流した。俳優生活35年、五十男の純情を見る思いがする。


劇団TA2も「私は悪くない」(2003年)「8・12」(2004年)「8・12第2章―絆」(2005年)と順調に公演を重ねた。特に「8・12」は、不慮の事故で志半ばで若くして逝った赤塚さんの親友の無念、悲しみを代弁したいの思いから、原作・脚本を自ら手掛けたものだった。

1985年8月12日の、日航ジャンボ機墜落事故の犠牲となった520人の中に、赤塚さんの友人・勝見隆さんがいた。ドラマー志望の彼は、渋谷のライブハウスでウエーターをしながら、ドラムをたたいていた。店の常連だった赤塚さんは、勝見さんと将来の夢を語り励まし合う間柄になっていた。そんな矢先の事故死だった。


昨年4月の初演は大好評。アンコールの声に応えて脚本を練り直し「8・12第2章―絆」として、今年4月23〜29日、アカサカVシアターで再演。「僕、なんで死んだんやあ。もっと生きたかったんやあ。やりたいこといっぱいいっぱいあんたんやあ」。ラスト近くでの若者の叫び、慟哭は、520人すべてのものに違いない。


公演中の4月25日、尼崎JR脱線事故が起き、107人の犠牲者の叫びが新たに重なる。そして、遺族の怒り・悲しみも。ステージ上の涙が、客席全体に広がっていった。

親友への思いから発した赤塚さんの演劇は、「今を悔いなく、そして身近な人をもっと大切に生きなければ」と思わせてくれた。それは、取りも直さず、彼の生きる指針でもある。この演劇は、彼にとってライフワークとなるであろう。


もともと演技力には定評があったが、その傑出したおしゃべりの面白さは、あまり知られていない。山形でのラジオ出演やトークショーでますます磨きをかけているが、バラエティー番組には重きを置かず、愚直なまでに俳優として、まい進しようとしている。

幼かった子供たちは、21歳、18歳と立派に成長し、苦労をかけた母親も85歳になるが元気でいてくれる。赤塚真人54歳。俳優生活39年目だが、「生涯一役者」としての歩みは、まだまだこれからだ。


 2005年7月15日 「俳優・赤塚真人さん 下」


[ 赤塚真人さん主宰 劇団TA2サイト http://ta2.ktplan.ne.jp/ ]