[No.21] 無垢材家具職人 渡邊英木さん
バイクでツーリングするのに絶好の季節である。山形市黒沢で、家具工房モク を営んで14年になる。
渡邊英木さんは、18年前のちょうど今頃、仙台から東京ー長野ー山梨とヤマハ400CCのバイクでツーリングをしていた。
渡邊さんが東北学院大学経済学部2年になったばかりの1988年春、仙台の三越デパートで、手作り家具の展示会に出会う。ジョージ・ナカシマ というアメリカ在住日系二世の作品展だった。彼は‘木匠’と呼ばれていた。そこにあるのは、天然の木(無垢材) を使った、温もりある、何か懐かしい家具ばかり。当時、家具といえば、合板の物しかないと思っていた渡邊さんには、衝撃だった。
「自分も、こんな家具を作りたい」と思った。
実家は、サクランボやりんご等果樹と米を作っている農家。長男の渡邊さんは、漠然と後を継ぐものと思い、とりあえず目的もなしに送っていた大学生活だった。
そんな時に出会った無垢材を使った手作り家具。アウトドア雑誌で、無垢材でオリジナル家具を作っている人が、山梨県小淵沢でペンションを営んでいることを知る。矢も楯もたまらず、仙台からバイクを走らせた。それは、ツーリングを楽しむというより、夢を掴むための旅 だった。
念 願叶い、そのペンション・オーナーに会い、無垢材家具作りへの想いを熱く語った。ちょうど、木工家具作りをやっている会社の山梨にある工房が人を募集して いるというので、オーナーに紹介してもらう。そのままバイクで東京吉祥寺の本社に出かけ、社長と面接、即入社が決まる。それが、ソリウッドプロダクツ明野村工房 だった。大学は中退した。親の反対を押し切ってのものだったので勘当同然だった。
子供の頃から工作が好きだったり、中学の技術・家庭が得意だった訳ではなかったが、好きこそ物の上手なり とはよく言ったもので、彼の木工家具作りの技術はみるみるうちに上達していった。
3年間の修行の後、山形市黒沢の実家に帰り、鶏舎だった小屋を工房に改装して 『家具工房モク』 を設立。渡邊さんのひたむきな姿勢に、勘当は自然溶解していた。仕事が、軌道に乗ってきた99年には、実家の蔵を利用して 『木の家具ギャラリー』 を 開設した。築百年になる蔵の柱は栗の木、梁は杉の木というように、無垢材が当たり前に使われていた。大学2年の春に、ジョージ・ナカシマ作品に出会った時 に、温もりと同時に懐かしさを覚えたのは、そんな育った環境もあったのだろう。無垢材家具に魅せられた当時は、集成材の接着剤から放出されるホルムアルデ ヒトがシックハウス症候群の原因物質であるということも一般には知られておらず、無垢材家具が見直される時が来るなどとは、露程も思っていなかった。
「木は人に近い素材で、家具を作りたいというより、木を扱う仕事をやりたかった のだと思う」
という彼の発言は、それを物語っているが、無垢材が人に優しいことを直感していたとも言える。
木は、葉が全部落ちて、木が眠っている12月から2月に切ると水分を吸わず、虫もつかない。そして、家具になった時に木が歪んだり、縮んだりしにくいので、家具制作に使用する木は、伐採から製材まで できるだけ立ち会うようにしているという。
彼の‘英木’という名 は木工職人としての創作名だと思っていたら、本名だというではないか。‘英樹’とするのが圧倒的に多いのだが、祖母が、左右対称で末広がりの文字でゲンがいいということで名付けたのだという。
その名の如く、すぐれた木の家具を作り続ける渡邊さんは
「父がやって来た農業も、自然素材を扱い、手をかけ作り上げるという点では似ているので、自然と影響を受けていたのだと思います」
と言う。11才と8才の子を持つ父となった今、かつては反発した父への 尊敬の念 を強くしているのが伺えた。
2006年6月9日 「無垢材家具職人・渡辺英木さん」