[No.23] ポッキーマサこと長尾雅行さん
ポッキーマサという山形市を拠点に活躍する 大道芸人 がいる。大道芸人と言っても、日本古来の‘がまの油売り’や‘南京玉すだれ’をするのではない。ピエロとして、パントマイムや、バルーンアートで子供たち を喜ばせるだけでなく、皿回し、マジックに、ナイフ、ファイヤートーチを駆使した危険なジャグリング、そしてローラーバランスと多様で難度の高い芸をいと もたやすくやってのける。
ポッキーマサという名前は、勿論芸名で、本名は、長尾雅行。長尾さんは、1973年9月米沢市に生まれ、 2歳のときに、県職員の父の転勤により山形市東金井に移り住む。スポーツが好きで、子供の頃からスキー、スケートを家族で楽しみ、金井中学時代は野球、日 大山形高校ではボクシングに打ち込む。本人曰く、「野球は、父ほどのセンスが無かった」とのこと。因みに、父・良彦さんは、米沢興譲館高校で捕手として活 躍。元・南海ホークスの名投手、故・皆川睦雄さんの4年後輩にあたるという。
長尾さんが、スポーツ以上に夢中になったのが映画だった。小学校4年生から映画館に一人で観に行くようになり、高校でボクシングをやるようになったのも『ロッキー』に触発されてのことだった。中学生になった頃には、スクリーンの中で活躍したい と、俳優を志す。それも、海外で俳優修行をしたいと思うようになる。
「海外で」という発想は、幼い頃にテレビアニメ『トム・ソーヤの冒険』を観て以来、漠然と海外への憧れを抱き続けていたことによる。高校を卒業後は、英 会話を身に付けるために、仙台の外国語専門学校に進むが、アルバイトに明け暮れる。渡航費用が貯まったこともあり、学校を1年で辞め、ワーキングホリデー 制度があるカナダのバンクーバーへ19歳で渡るのだった。働きながら、外国人向けの学校で英語を学び、俳優への足がかりを探すべく、芝居を観て歩く。
そんなある日、劇場の壁に貼ってあった一枚のチラシが目に飛び込んでくる。それは、カナダクラウンカレッジスクールというピエロを育成する学校の入学案内だった。「これだ!」と閃き、俳優として必要な パントマイムを学ぶ ために入学。そこで、1年間ではあるが、パントマイムの基礎を学び卒業。その後もカナダを拠点に活動を続ける。俳優になる手段として学んだパントマイムを 活かしてパフォーマンスをしているうちに、道端でも何処でもステージにして、自分一人の芸で観客を喜ばせることに魅せられていく。所詮、俳優もパフォー マーの一つに過ぎないのだ。
カナダでの暮らしが、3年近く過ぎた頃、母が体調を崩したという知らせが入り帰国。帰形後は、山形のリナワールドで、専属パフォーマーとして活躍。この 時期、ジャグリングやマジックを独学で習得。4年が過ぎ、母の体調が回復したこともあり、ロシアへ渡り、モスクワ国立サーカス学校に入校する。それは、ピ エロとしての本質芸 クラウニングを基礎から学ぶ ためだった。当時、治安が悪く、極右ネオナチに集団で襲われ、右肩・肘靭帯損傷する大怪我を負うという危険な体験も経て帰国。
直後の2001年春、小野川温泉での、父方祖母‘ちうさんの百歳を祝う会’に参加し、親戚の前で、大道芸を初披露。すると、ちうさんが「血筋だなあ」とにこやかに呟く。なんと、ちうさんは、米沢が生んだ喜劇王・伴淳三郎と従姉 だったのである。その、ちうさんも、今年3月に、百五歳で永眠。
長尾さんは、大道芸をやって楽しむ人、それを観て喜ぶ人の裾野拡大を目指すと言う。昨年からは、東根市タントクルセンター青年教室で、ストリートパフォーマンスとマジックの講座を担当し人気を得ている。種は、蒔き始めたばかり だが、芽を出し、花開くのもそう遠い日ではないのではないだろうか。
そして、ポッキーマサの出現・活躍をアジャパーと驚き、誰よりも喜んでいるのは、天国の伴淳さんに他ならない。
2006年12月22日 「大道芸人ポッキーマサこと長尾雅行さん」