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[No.24]  2人組ボーカルユニット 吉見一星さん


吉見一星さん昨年2月CDデビューを果たし、今年1月31日には第2弾シングル「STORY」をリリースした二人組みボーカルユニット‘イレブン‘の吉見一星さん(24)は、山形市出身。サッカーJ2モンテディオ山形の元選手という経歴を持つ。

幼い頃、両親が離婚し、母一人子一人の環境で 育つ。幼少の頃からサッカーボールを蹴るのが大好きだった。母・正子さんの話では、2歳8ヶ月の時にサッカーボールを与えると、誰に教わるでもなくドリブ ルをしたという。それを見て、わが子の並々ならぬ運動神経の良さを感じ、スイミングスクールや、空手道場に通わせ、山形西小学校入学後はスポーツ少年団で 野球に取り組ませる。正子さんは、学生時代ソフトボール部で、野球好きだったのだ。

一星少年は、それでもサッカーボールを蹴っているのが何より好きだった。4年生になり自らの意志でサッカーのスポ少に移る。好きこそ物の上手なれ、みるみ る頭角を現し、山形FCで活躍するようになる。5年生の時、Jリーグが華々しく開幕。三浦知良選手に憧れ、Jリーガーになることを夢に描くようになる。6年生の時は、山形県から只一人東北選抜に選ばれ全国大会に出場。山形二中に進んでも、山形FCでサッカーに打ち込む。山形中央高では、3年連続で全国高校選手権大会に出場。卒業後は、地元モンティディオ山形に入団した。

ここまでは、まさに挫折知らず。思い描いた通りのサッカー人生を歩み、夢をグッと手元に引き寄せたのだった。

しかし1年目は、2試合に出場しただけに終わる。2年目は、いよいよレギュラー獲りだと張り切り、柱谷幸一監督の下、猛練習に明け暮れた。好事魔多し。両足を疲労骨折し、シーズンを棒に振る。そして、終了後に戦力外通告を受け退団。その後、日本フットボールリーグの京都・佐川印刷に移籍するが、思い描いていたサッカー人生とのギャップと、自分の選手としての限界を悟り引退。

子供の頃からの夢を掴み獲る途上での断念だった。大きな絶望感を抱き、沢山の涙も流したことだろう。これだけの挫折を経験すると、自信喪失して、立ち直るのに時間を要するものだが、彼は違っていた。

次に、彼が目標に定めたのは歌手だった。動機は、至って単純。「子供の頃から唄うことが好きだった。モンテディオ時代も、チームメイトとカラオケに行った 時には、自分の歌をみんなが誉めてくれた。そうだ、歌手になろう。歌手になるには東京だ。」なんというポジティブシンキングだろう。

ためらうことなく上京し て、職を見つけ、働きながらオーディションに挑戦。そこで、同じ目的を持つ愛知県出身の菱田貴文さん(24)と出会い、ユニットを結成する。ボーカルレッ スンを受けながら、ライブハウスでのライブを重ねた。無名の自分たちのライブに足を運ぶ人は少ない。もっと多くの人に、自分たちの歌を聴いて欲しいという 想いを抑えられず、二人で路上ライブに出た。選んだ場所は、最も人が往来する渋谷駅のハチ公前。

吉見一星さん当初は、自分たちの歌に足を止める人はいなかった。それからは、ファッションや、アンプ・スピーカー等の機材に工夫を凝らし、唄う場所も少しずつずらしてみた。次第に効果は表れだし、渋谷でも新宿でも二百人三百人と集まり、歌を聴いてくれるようになった。

努力が実り、昨年2月に、オリジナル曲「fortissimo」でインディーズデビュー。そして、この度の新曲は、路上ライブで唄い、ファンから支持を得たAIの楽曲「STORY」のカバー曲。インディーズからメジャーに向けての勝負曲となる。 

女手ひとつで育てられた彼だが、別れた父と会う自由は許されていた。サッカー選手、歌手と目標は変わっても、その都度、父からもアドバイスや関連する本などを贈ってもらった。
「これまでやってこれたのは両親のお陰です」きっぱりと云える彼は幸せだ。

私はといえば、漠然とした夢は抱いても、他人からどう思われるかを気にして目指す努力すら放棄していた。だからこそ、一星さんの、迷うことなく目標や夢に向かって全力で突き進む姿は、頼もしく、眩しい。

歌手としての伸びしろは、まだタップリあるぞ。
ガンバレ!イッセイ
 

2007年3月23日 「ボーカルユニット吉見一星さん」