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[No.25]  元 ザ・ガリバーズ 多勢正隆さん


多勢正隆さん 生バンドによるオールディーズ、ロックンロール、グループサウンズ(以下GS)を老若男女が楽しんでいる。60歳を超える男性と20歳前後の女性という幅 広い人たちが曲に合わせ、想い想いにツイストを踊っているのだ。これは、山形市七日町のライブハウス「ヒットパレード」の平日の夜11時頃の光景。この店 で、生バンドを率い、エレキギターを弾きながら唄っているのが、オーナーのマー坊こと多勢正隆さん。多勢さんは、かつてグループサウンズ(以下GS)ザ・ガリバーズのボーカルとして活躍した華々しい過去を持つ。

彼は、昭和25年1月山形市七日町で生まれ育つ。母は、自宅と壁ひとつ隔てた店でスナックを営んでいた。夜、寝床に入っても、ジュークボックスから流れるフランク永井や三橋美智也、春日八郎、マヒナスターズなどの曲が聴こえてきて、自然に唄うことが大好きになっていた。

中学生になったころには御三家・三田明の青春歌謡。それが、二年生になるとベンチャーズ、ビートルズと出会い、体に電流が走るような衝撃を受ける。「これまで聴いてきた音楽はなんだったんだ」早速、友人とバンドを組み、自分たちで演奏するようになる。多勢さんのパートはドラム。ベンチャーズをコピーするのが主だった。ベンチャーズが来日し、県民会館でコンサートをやった時は、最前列で鑑賞、ノーキー・エドワーズが放ったピックをキャッチする幸運にも浴した。

高校生になると、ビートルズ来日、そしてスパイダーズやブルーコメッツなどのGSが音楽シーンに颯爽と登場し、タイガース、テンプターズの出現で一気に GSブームが爆発する。多勢さんのバンドも、従来のビートルズ、ローリング・ストーンズ、キンクス等洋楽の他にGSの曲も演奏、地元では評判の人気バンドとなり、ビアガーデンやパーティ等に引っ張りだこ、そして楽器メーカー主催のバンドコンクール山形県大会でも優勝するなど、次第にアマチュアでは飽き足らなくなっていた。

そんな時に、多勢さんに、東京でプロとしてデビューの 話が舞い込む。山形で活躍していた選りすぐりのメンバー4人と、東京の二人を加え、GSとしてデビューするという計画で、多勢さんは、ボーカリストとして 選ばれたのだった。所属する事務所は、ブルーコメッツを抱える大橋プロダクション多勢さんに迷う余地は無かった。父親や、教師の反対を押しきり、高校2年 の2学期で中退し、メンバーと共に上京。時は、GSブームのピークを迎えていた。

多勢正隆さん半年ほどの修行期間を経てザ・ガリバーズと命名さ れた山形の若者たちは1968年7月1日「赤毛のメリー」でレコードデビューを果たす。作詞・橋本淳、作曲・筒美京平のヒットメーカーの手によるものだっ た。プロマイド売り上げGS部門ランキング(68年9月)で9位、音楽雑誌ミュージックライフGS部門人気投票で3位に入る勢いだった。当時、三百余りの GSが群雄割拠していたことを思うと、その人気の程が窺える。

2曲目が勝負となるのだが、事務所社長と意見が対立、そして決裂、ガリバーズは独立する。しかし甘い世界ではなかった。GSブームは急速に終焉を迎え、仕事は激減。メンバーも次々に辞めていった。全速力で走ったガリバーズとしての活動は2年足らずの期間だった。

多勢さんは、山形市に帰り、スナックを経営し弾き語りをしていたが、まだ若く、商売を度外視して客と一緒に楽しんでいた。気づけば借金を抱え、のっぴきならなくなり東京へ。お世話になった人へ不義理しての30歳での2度目の上京だった。

東京、仙台のライブハウスでの活動を経て、39歳で帰形。不義理していた人達に謝罪して回り、そして1990年1月、七日町王城ビル5階にライブハウス「ヒットパレード」をオープン。店は繁盛し、借金は3年で返すことができた。バブルが崩壊し紆余曲折はあったが、団塊の世代を中心に音楽を楽しもうという客が最近戻ってきている。

昨年暮れには、当時、ガリバーズのマネージャーだった宇崎竜堂さんが友情のライブをやり、70席の会場は熱気に包まれた。「今こうして唄えることが嬉しい。」57歳になった多勢さんはしみじみと言う。あの、百花繚乱のGS時代に、山形出身の気骨あるGSがいたことを胸に刻みたい。
 

 2007年7月10日 「元ザ・ガリバーズ 多勢正隆さん」