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[特別編]  偉大な野球人 小山田健一さん


 今年も、春季東北地区高校野球県大会で熱戦が線リ広げられた。私は、選手の父親世代になってしまったが、高校野球というと今でも35年前の少年のころを思い起こす。

 1968年、小学5年生の私は、長嶋茂雄へのあこがれからプロ野球選手を夢見て野球ボールを暗くなるまで追いかける野球小僧だった。この年、この野球小僧を夢中にさせる高校球児が地元に出現する。それは日大山形高の四番打者小山田健一捕手。

こ の日大山形チームはとにかく強く、春の東北大会で優勝して、夏の甲子園予選県大会は2回戦から出場。4回戦までコールド勝ち、準々、準決勝も圧倒的勝利を 収め、決勝の山形東戦は17対0というけた外れの強さでねじ伏せ優勝。左腕のエース柳橋明は、長身から投げおろす速球と鋭いカーブを武器に5試合で失点 1、奪三振66の快投。打線も切れ目なくどこからでも点を取り、守備も内外野よく鍛えられ、他チームとは格段の開きがあった。

  このチームの四番を打つ小山田さんの勝負強い豪快な打撃はほれぼれするもので、連日球場に足を運んでいた私の脳裏に今でも焼き付いている。特に準決勝対山形工戦での阿部、小山田連続三塁打には快哉(かいさい)を叫んだ。

  チームは全国での評価もAクラスで、甲子園でも県勢初勝利どころか上位進出も夢ではないのではと期待されたが、初戦の山岩国商(山口県)戦に0対1で敗退する。小山田さんのバットから快音が聞かれることもなかった。それでも、この年のドラフト会議で小山田さんは東映フライヤーズから6位指名され、翌年人団する。

  小学6年生になっていた私は、自分の夢を小山田さんに重ね合わせ、東映で張本や大杉とクリーンアップを打つ日を楽しみにしていたが、その日が来ることはなかった。一軍でさしたる活躍のないまま’78年ヤクルトに移籍。同世代の捕手・大矢、八重樫が居座るヤクルトでは東映以上に出番がなく、’78年現役を引退してブルペン捕手となる。ブルペン捕手は、投手の投球練習を務める捕手のことで"カベ"と呼ばれる決して脚光を浴びることのない役割である。

  中学の野球部でプロ野球選手への夢が潰(つい)えた私は、随分長い問、小山田さんを思い出すことのないまま年を重ねてきたが、一昨年に突然、その存在が浮かび上がってきた。

  2001年のシーズンはヤクルトがセ・リーグ優勝を果たし、近鉄との日本シリーズも4勝1敗で制した。日本一が決まった神宮球場でのセレモニー、そして選手が場内を一周する際に池山が誰かの遺影を掲げていたのである。その夜のスポーツニュースでその遺影の主が小山田さんであることが判明した。ゲスト出演の池山も、元同僚の栗山キャスターも、小山田さんのことに触れると涙で言葉を詰まらせ、話せなくなってしまったのである。

  小山田さんは、同年3月20日に胃がんのため、五十歳の若さで亡くなっていた。池山は、昨シーズン終了後、19年間の選手生活に別れを告げ、今春、「池山隆 寛のブンブンブン!夢、ありがとう」を出版。彼の野球人生に影響を与えた父、関根、野村監督、清原、広沢、古田らそうそうたる顔ぶれと並んで、小山田さん のことが書かれていた。

  「小山田さんは、ぼくがプロ野球選手として育つ過程でお世話になった人であり、野村監督時代には何度も優勝の喜びを分かち合ってきた仲間だ」という一節がある。プロ野球選手としては花開くことのなかった小山田さんだが、裏方として球団、選手のために黙々と労を惜しまず働き、ヤクルトの栄光を支え、選手の心に生き続けていることがうかがえ、感動した。

 少年時代の私のヒーローは、やはり尊敬すべき人だった。あらためて山形が生んだ偉大な野球人・小山田健一さんのことを、心に深く刻みたい。


2003年5月30日 「偉大な野球人・小山田健一さん」