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[No.16]  俳優・赤塚真人さん  (上)


アカツカマコトと聞いてピンとこない人も、その顔を見れば「ああ、この俳優さん。昔からよく出てる、いい役者だよねぇ」と、多くの人が言うのではないだろうか。

赤塚真人さん赤塚真人という俳優を、私は昔から好きだった。「小さな恋の物語」(日本テレビ・1972年)では、沖雅也の親友でドジな山下役。「青葉繁れる」(TBS・1974年)では森田健作、沖雅也のお人よしな仲間。山田洋次監督の「同胞(はらから)」(松竹・1975年)では、岩手県松尾村の青年団のお調子者・忠治。「剣と風と子守唄」(日本テレビ・1975〜76年)では、三船敏郎や中村敦夫、斎藤こず恵にくっついて歩く、気弱な渡世人。


このように、当時、私が好きだった俳優の主演作や好きな監督作で、赤塚さんは笑いやペーソスを振りまき、作品にコクを加えていた。このほかにも青春ドラマ、刑事ドラマ、ホームドラマ、時代劇と、さまざまな作品で活躍していた。「塚本次郎の夏」(NHK・1977年)では、主人公の次郎を演じ、芸術祭優秀賞を受賞している。


私が、自主上映の仕事に携わってから知ることになる、大澤豊監督の「ガキ大将行進曲」(1979年)、「青葉学園物語」(1981年)などの児童映画にも出演。見る人の気持ちを、明るく軽やかにしてくれる俳優だった。


親しくさせていただいている、村山市出身の村川透監督作、「おかしな夫婦2」(日 本テレビ火曜サスペンス・1996年)に、赤塚さんが出演した際、村川監督に「赤塚真人さんて、昔から好きな役者さんなんですよ」と言ったら、喜んで紹介 してくださった。手紙のやりとりから始まり、1997年4月に、東京駅での初対面で意気投合。それからは、山形にちょくちょく遊びに来て、自然や食、人と の交流を満喫するようになる。


サービス精神も旺盛で、私がパーソナリティーを務める、山形放送のラジオ番組「おしゃべりシネマ館」や、「なつメロリクエスト電話でこんばんは!」にも、時々友情出演。その明るいキャラクターで、番組を盛り上げてくれる。知らない人は、山形出身の俳優と勘違いするほどである。

赤塚さんは16歳の1967年、時代劇「剣」(日本テレビ)で名優・志村喬の息子役でデビュー。以来38年間、54歳の現在まで俳優人生を歩き続けているが、その歩みは決して平坦(へいたん)なものではなかった。


青春ドラマの脇役として活躍し出した20代前半、主役俳優と衝突し、その責任を取り俳優を廃業し、調理師や左官として働いている。

そんな彼が、「同胞」でカムバックを果たすのは、松竹で山田監督に師事し、かつて赤塚さんをドラマで起用したことのある、米沢市出身の脚本家・高橋正圀さんが、彼の才能を惜しみ、当時「同胞」に出演する若い俳優を探していた山田監督に推薦してくれたからだった。「男はつらいよ」が好きでたまらず、バイブルのように思っていた赤塚さんにとって、夢のような話だった。


「山田先生の『同胞』に出してもらってから、それを見た監督やプロデューサーから、ドンドン出演依頼が来るようになったんだよねぇ」。売れっ子俳優となり、順調にキャリアを重ねる赤塚さんだったが、忙しさにかまけ、次第に家庭を顧みないようになり、ふと気付けば、妻は赤塚さんの下から去っていってしまった。


8歳の女の子と5歳の男の子が、ぽつんと残された。男手ひとつで、子供たちを育てなければならなかった。俳優という職業は家を空けがちである。幼い子供たちと一緒にいてやりたいという思いから、彼は俳優を辞め、調理師の腕を生かしてラーメン店を開こうと決意する。

そんな時に、長女が「テレビに出ているお父さんを見るのが楽しみなの。俳優を辞めないで」と、泣きながら訴えてきた。子供心に、父親が自分たちのために好きな俳優を辞めることに、心を痛めていたのだろう。自分へのけなげな思いやりに、熱いものが込み上げてくるのだった。


子育てしながら俳優を続けるために、彼は、年老いた母が一人暮らしをしている、茨城県の実家近くに移り住む。「茨城在住子供二人のシングルファザー俳優」の奮闘努力が、ここから始まるのだった。


2005年6月15日 「俳優・赤塚真人さん 上」



(後編へつづく)

赤塚真人さん、村川透監督と
赤塚真人さん、村川透監督と私